2014年11月23日日曜日

731部隊(1)


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八王子・武蔵野「731部隊展」終了!!



「731部隊展」を終えて
今回の731部隊展を終えて感じたことは、大日本帝国実現の為に、兵器を作るのに熱中しすぎて、人間の倫理観は麻痺し、残虐な限りを尽くしたことだ。日本医学界は、上からの命令で動いたことや、アメリカが細菌戦のデータを重視し、隊員を買収してデータを集め、戦犯免責を与えたものだから、関わった者たちは戦後全くの反省することなく、自慢げに学会で発表する者すらいた。また、戦中・戦後、生体実験をもとにして書かれた論文に多くの大学が驚くことに博士号を授与した。
そして国体護持(天皇制護持)を条件に、降伏した日本は、アメリカの非人道的な2発の原爆投下を非難することはできず、731の残虐行為を隠蔽し心証をよくするため、日本医学界は全面的に、アメリカの原爆被害調査に協力し、治療はまったくしなかった。ただ、現地の医師たちだけが、患者に向き合い、治療した。
このことが、アメリカの核戦略を容認し、日本の科学界・医学界が、原子力の方向へ進むことになる。
中国、アジアで行われた医学界の残虐行為は、国家犯罪であり、日本医学界だけの問題ではなく、天皇を含め国家の上層部の責任が大きい!!日本医学界が謝罪できない理由は、こんなところにあるのかもしれない。

●731部隊展


パネルを振り返りながらそれを見ていくと、

序章は、「薬害エイズと731部隊」
一枚目のパネルは厚生省の中庭に建てられた碑の写真から始まる。
その「誓いの碑」には、こう書いてある。

「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月 厚生省」

1980年代、アメリカでエイズが広がった。もしかしたらこのエイズも731部隊の研究成果を元に作られた可能性はある。人為的なもの?
アメリカは、血友病患者に投与していた非加熱製剤がエイズウイルス汚染されていることがわかり、いち早く加熱製剤に切り替えたが、日本は、非加熱製剤のトップメーカーであったミドリ十字に配慮して、加熱製剤への切り替えがアメリカに比べ2年以上も遅れ、さらに加熱製剤販売後も1年以上非加熱製剤を回収しなかったために、薬害エイズの被害が広がった。

なぜ、ミドリ十字に厚生省は配慮したのか。両者には、天下りを通して、癒着があり、厚生省のエイズ班長であった安部英(あべたけし)にも、影響を与えた。

それでは、テレビで初めて薬害エイズの件で土下座者謝罪したミドリ十字とは、いったいどんな会社なのか?
1950年、石井四郎の懐刀(ふところがたな)といわれた内藤良一(731部隊員、防疫研究室にいて、石井ネットワークにいろいろ指示を出していた)は、朝鮮戦争の犠牲者に対する輸血血液の需要を当て込んで、売血を目的に、日本ブラッドバンクを設立をする。そこには北野政次(731部隊2代隊長)ら多くの731部隊員が集まる。そして日本の輸血が売血から献血に切り替わると、日本ブラッドバンクは、ミドリ十字と社名を変更し、血液製剤メーカーとなっていった。
内藤は、多くの731部隊関係者をスカウトし、日本ブラッドバンク・ミドリ十字の中核を担わせていく。

内藤が731部隊の人脈と技術を引き継いでつくり上げたミドリ十字は、731部隊の気風をそのままに引き継いでいた。そのことが、薬害エイズ事件を引き起こす原因の1つになった。

※731部隊の気風・・・731部隊は本当に人命を軽視していた!!
※ミドリ十字は、医薬品業界の合併を経て現在田辺三菱製薬になっている。

第1章 731部隊の創設
1931年9月18日、中国東北部の柳条湖で関東軍は、鉄道を爆破し、中国軍の仕業にして、東北地方の侵略を開始する。32年関東軍と南満州鉄道会社の支配のもとに清朝のラストエンペラー溥儀を擁立し、満州国を建国し、中国人を表の顔にするが、裏で日本人の役人が操っていた傀儡国家であった。安倍の母方の祖父、岸信介も満州国の役人であり、「満州5カ年計画」などの策定にかかわっていた。東條英機も、関東軍司令官として赴任していた。両者とも極秘裏に進められていた、731の計画も知っていただろう!!

その満州国の背陰河に秘密裡に東郷部隊を設置し、生体実験を繰り返しやっていたが、マルタ(被験者)の脱獄事件が起こり、これをきっかけに、脱獄できないもっと大規模な実験施設を平房に建設する。1938年頃主要な建物が完成する。
この巨大な施設は、議会の承認なしに、年間今のお金にして90億円が費やされた。もちろん天皇も陸軍も承認した施設であった。この施設には、今のIOCの会長の竹田の父親竹田宮恒徳王(竹田宮)は宮田中佐と名乗って、731に関与していた。
三笠宮・天皇もこの施設を視察したと言う証言もある。
安倍が秘密保護法をいち早く成立させた背景にはこういうことが関係があるかもしれない。
高杉晋吾 国策としての731部隊と原発

部隊全景
周囲8km四方を土塁と高圧線に囲まれ、部隊には鉄道の引込み線が敷かれ、物資やマルタ(被験者)を運び入れていた。飛行場もあり、専用の飛行機も数機有し、学校あり、神社、隊員の宿舎、運動場、テニスコートなどもあった。敷地内のロの字形をした研究棟(5階建てぐらい)の中に、7棟、8棟と呼ばれた特設監獄があり、そこにマルタと呼ばれていた被験者たちが収容され、いろいろな生体実験が行われていた。

731部隊の始まり
石井四郎は、京都帝大医学部を卒業後、軍医になり、1928年から2年余りヨーロッパやアメリカを視察旅行し、細菌兵器が資源の乏しい日本にとって、有効であることを確信し、永田軍務局長をはじめ、軍上層、天皇を動かし、細菌兵器の開発を傀儡(かいらい)国家満州で、取り掛かる。

731部隊組織表
731部隊には多いときで3000人の職員がいた。第1部から第4部まであった。
第1部では基礎研究でチフスやコレラ、ペストなどの細菌の研究をしていた。
第1部第3課のレントゲン班に宮川正の名前が見える。
1954年のアメリカの水爆実験のとき、被害を受けた船を第五福竜丸だけにした男だ。
そのとき、1000余り被曝したのだが、アメリカの意向を受けて過小評価した。

宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。

・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。

・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永
※また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。
実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

東大・中川氏 正しい放射線・放射能・被ばくに関する対応とは

崎山比早子先生 『御用学者・東大中川恵一を痛烈批判!』



陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
天皇の承認の元に、細菌戦の攻撃面の命令は参謀本部作戦第2課が行ない、研究は陸軍省医務局が管轄していた。細菌戦部隊はアジア各地につくられ、防疫給水という名称によって、隠された。ハルピンをはじめ、北京、南京、広東、シンガポールにつくられた。
防疫給水部全体のネットワークは石井機関と呼ばれ、陸軍軍医学校防疫研究室の内藤良一が采配を振るっていた。
大学教授は、防疫研究室の嘱託となって、弟子たちを731部隊に送り、731部隊に指示を出していた。731部隊に行った弟子たちは生体実験などのデータを防疫研究室に送って、情報の共有をはかった。


日本医学会総会軍陣医学部会
1942年の第11回の日本医学会総会は東大で開かれた、写真は東大の安田講堂の前で第9部微生物学分科会の記念撮影。
前列向かって左側に、731部隊初代隊長の石井四郎、右側には2代目隊長の北野政次、3列目の左には1644部隊長の増田知貞の顔が見える。いかに、この部会で細菌戦部隊が幅を利かせていたかがわかる。
部会では、多くの細菌戦部隊員が参加し、人体実験で得たデータを元に書いた論文を発表している。
石井軍医少将は「所謂孫呉熱ノ研究」を研究グループを代表して軍陣医学部会の最後に講演した。

第2章「マルタ」
ロ号棟(四方楼)に囲まれた特設監獄(7棟、8棟)に被験者は「マルタ」(丸太)と呼ばれ収容され、人体実験が行われていた。

憲兵隊と「特移扱」(特別移送扱)
憲兵隊や特務機関に逮捕された者は秘密裡に731部隊に送られた。人体実験の被験者は「マルタ」と呼ばれた。「丸太」という意味である。

「特移扱」(とくいあつかい)は、憲兵隊が実験材料「マルタ」を731部隊に供給するための制度である。
憲兵は、特移扱でマルタを731にたくさん送れば、出世した。731部隊にとっては、大量の実験材料を速やかに入手できるものであった。
抗日活動家やソ連のスパイは裁判にかけられず、731部隊に送られた。
もちろん、無実の者でも、憲兵隊での脅迫や拷問下での取り調べの実情が、外部に漏れるのを防ぐために、731部隊に送られた人もいた。


「特移扱」文書
吉林省档案館発行の『「731部隊」罪業鉄証』には、戦争当時の憲兵隊の文書の写真が載っている。
そこには、工作名 イワン 「特移送スルヲ至当トミ認ム」と書いてある。
中国人 張生文は、抗日活動をしていたのだろうか?工作名イワンと名乗り、活動していた。そして、憲兵隊に捕まり特移送された。すなわち、731部隊に送られた。
731部隊に送られた者の数ははっきりしていないが、731部隊の総務部長や細菌製造部長であった川島清ハバロフスク(ソ連)裁判の供述調書に「強力な伝染病を囚人に罹患させる実験によって毎年600人以上が死んでいた」という証言を残している。
1939年から1945年の敗戦までには、少なくとも3000人が被験者とされ、殺された。

朱玉芬(しゅぎょくふん)の父と叔父
私は朱玉芬です。父は雲彤(うんとう)で叔父は朱雲岫(うんしゅう)です。2人とも抗日連軍(東北抗日連軍)にいました。憲兵隊に捕まって、731部隊に送られました。
2人とも731部隊で実験されて亡くなりました。

第3章
731部隊の人体実験

731部隊をはじめ、石井機関、陸軍病院その他の施設では、密かに人体実験が行われていた。
中国に作った日本の陸軍病院では、手術演習の名のもとに、生体解剖が行なわれた。
731部隊では、ペスト菌の毒力を増すために、ペスト菌の注射そして、その後に生体解剖、その他の菌でも、行われた。
また、細菌戦をやったところに赴いて、防疫活動の名のもとに、生体解剖を行なった。
軍医として中国・山西省へ

ペスト(黒死病)
平澤正欣軍医少佐の博士論文『「イヌノミ」の「ペスト」媒介能力ニ就テノ実験的研究』には、イヌノミがペストを動物に感染媒介する能力についての実験が報告されている。それによると、ペストに感染したイヌノミを3人の被験者に一匹附着すると、ペストになる人は0人で0%、5匹附着すると1人で33%、10匹附着させると2人で66%である。
ノミには14種類あり、その中でどのノミが細菌戦に有効であるかを研究していた。
その結論として、ケオピスネズミノミが一番感染力、抵抗力があることがわかり、このノミを細菌戦に使用することになる。

炭疽(Anthrax)
731部隊では、いろいろな細菌の培養をし、兵器化していた。
戦後、アメリカは、731部隊員から入手したデータを使って、731部隊員をアメリカに呼んで、3つの英文レポートを書かせている。Aレポート(炭疸菌)、Gレポート(鼻疽菌)、Qレポート(ペスト菌)である。
戦時中、731部隊ではいろいろな生体実験が行なわれたが、その中に炭疸菌の実験があった。
炭疸菌を皮下注射した場合、症例数1で、症例番号54番は7日で死んだ。
経口感染させたものは、症例数6で、318番、26番は3日で死に、320番、328番、325番、17番は2日で死んだ。
経口撒布感染させた者は12人で、411番は4日で死に、・・・・・
経鼻感染させた者は、4人で、380番は3日で死んだ。・・・・・

流行性出血熱
満州で原因不明の風土病がはやった。
そのとき、731部隊は調査隊を送って、人体実験をして原因を調べた。

1938年にソ連との国境地帯に不明疾患が続出した。死亡者は年々増加し、致死率は15%であった。この出血熱は、発病地の名前を取って、孫呉熱とか虎林熱と呼ばれ、731部隊は調査班を編成して派遣した。731部隊内には特別研究実験班を設置し、「特殊研究」を行わせた。
病原体は北満トゲダニから分離され、濾過性(ウィルス)と特定された。1942年12月に流行性出血熱と命名され、現在は腎症候性出血熱といわれる。
「特殊研究」とは人体実験のことである。

毒ガス実験
731部隊と516部隊(関東軍化学部)は、合同で毒ガスの人体実験を行っていた。
516部隊には、731部隊の分遣隊が置かれていた。石井部隊は背陰河時代に青酸の人体実験を行っていた。平房の本部は、毒ガス実験室を作り、ガラス張りの部屋に毒ガスを発生させて、中の「マルタ」を観察した。

瀬戸内海に浮かぶ大久野島では大量の毒ガス兵器が作られ、中国で使用された。当時、生産に携わった人の中には、そのときの後遺症で今なお治療を受けている人もいる。
また、戦時中、中国では、日本軍が使用した毒ガス兵器によって多くの人が死んだり、731部隊や516部隊の実験材料にされて、無残に殺された人も多い。
日本軍が敗戦で引き揚げるときに、多くの毒ガス弾を中国に遺棄したことによって、今の中国では、その毒ガス弾に触れたり、爆発によって被害が出て、日本で裁判も現在進行中である。
化学兵器廃絶を目指し、被害者を支援する ― 遺棄毒ガス問題ポータルサイト ―
遺棄毒ガス被害者家族の現状(ABC企画ニュース89号より)

相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅰ ファインダーがとらえた地獄
―総務部調査課写真班 T・K
「新京陸軍病院衛生兵から731部隊員へ」より
毒ガス実験の撮影は命がけだった
・・・「丸太」は、1回に1人ずつ、特別班員によって中に連れて来られる。足かせをはめられ、後手に縛られて、ガラスのボックスの中に立ったまま入れられる。
じっと息を殺したような重苦しい時間が流れる。やがて、ボックスの中の「丸太」がまるで居眠りでもするように、次第に顔をうつむけていく。5分ぐらいたったろうか。「丸太」は、ひとつ大きな「あくび」のような息をして、ガクッとこうべを垂れる。絶命の瞬間だ。
1回の実験で、4、5人の「丸太」を次々とこうして毒ガスで殺す。
カメラを構えている私の近くの壁に、小鳥(カナリアだったか、十姉妹だったか)を入れた鳥かごがぶら下げてあった。よく見るとほかにも、2、3の鳥かごが同じようにかけてある。
「これ何のためですか」と聞くと、516部隊の将校が、「かごの中の鳥の様子に注意せよ」という。そして、小鳥の様子に異常を認めたら逃げろ、と指示された。
つまり、この実験で使用されたのは、無色無臭の窒息性毒ガスで、しかも実験設備では、毒ガスがもれる恐れがあるということなのだ。
O大尉に731部隊行きを誘われた時、40歳ぐらいまで気楽な軍属として働こうと思っていた私は、731部隊の想像もしていなかった危険な実態を、身にしみて感じ、はげしく悔恨のほぞをかんだが、もう遅かった。


毒ガス野外実験
陸軍の毒ガス研究開発は、関東軍化学部(516部隊)、第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、浜松陸軍飛行学校などが担った。攻撃方法は迫撃砲などの砲弾によるもの、地上で撒布・放出するもの、飛行機による雨下(空中撒布)や毒ガス弾の投下などであった。731部隊では、毒ガスの人体に及ぼす影響を、人体実験を行い研究した。
1940年9月7日~10日にかけて、砲門4門(600発)と十榴8門(600発)のきい弾〔イペリット・糜爛性(びらんせい)ガス〕の射撃を実施。第1,2,3地域に分け、野砲偽掩体、壕、観測所、掩蓋MG(機関銃)座、特殊構築物などに被験者を配置した。被験者を毒ガスマスクを装着するもの、しないものに分けた。

赤ん坊への凍傷実験
シベリア出兵(1918年~22年)時には、全軍の3割が凍傷に罹った。ソ連軍との戦争を想定していた関東軍にとって、凍傷の治療は克服しなければならない課題であった。
吉村寿人(ひさと)班では次の手順で実験を行った。
1、零下20℃以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る。
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する。
3、凍傷になった腕を温度差のある湯につけて、回復具合を見る。時により患部が壊死・脱落して骨があらわになる。
吉村らはこれらの実験から凍傷のメカニズムを明らかにし、「治すには体温程度の温水につければよい」という画期的な治療法を発見した。石井はこの発見をことあるごとに誇っていたという。

生後3日、1ヶ月、6ヶ月の赤ん坊への実験。
なんと赤ん坊でも実験を行っていた。
・・・・「中指に針を埋め込み、摂氏0℃の氷水に30分入れ、皮膚内部の温度変化を調べた。生後3日から1ヶ月後までこの実験が毎日行われた。吉村はこの被験者は、共同研究者の二男だと弁解している。」
※もちろん、中国人の赤ちゃんなども、実験に使われていたのではないか?
吉村が自著『喜寿回顧』の中でも、モンゴル人少年の凍傷実験の様子を写した写真を載せている。反省など全く見られない。
戦後、吉村は、京都府立医大学長までなるが、日本生理学会において731部隊で行った凍傷実験を「私の研究遍歴」と題して発表し、学会からは批判も出ていた。
凍傷実験に被験者にされた人は、手が無くなったりしたが、死ぬまで何らかの実験に使われた。


医学者たちの独走
731部隊での実験は、細菌戦の準備とは無関係に医学者の好奇心だけで行われたものがほとんどである。
・乾燥器にかけて熱風を送る。
・何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか。
・パンだけ与えて、水を一切やらなかったらどうなるか。
・ガラスチェンバーでのガス実験。
・梅毒実験。
・逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどの様に変化するか。
・X線の長時間照射。
・チスフ菌入り甘味まんじゅう実験。
・手榴弾を、露出したマルタのお尻付近で爆発させ、破片の突き刺さり具合の調査。
・真空実験、減圧実験。
・ビタミンCの大量注射。
・A型からO型(血液)への輸血。
・右腕と左腕を取り替える。
・ロシア人母子への青酸ガス実験。
・・・・・・・・・
731部隊で人体実験が行われている時期に平行して、大学医学部や石井機関でも「治療」と称して人体実験が行われ、多くの被害者を出している。日本に於ける、731部隊と民間の人体実験への姿勢は無関係ではなく、同じ医学パラダイム内での行為である。

人体実験が結ぶもの
軍部は731部隊に実験材料(被験者)と資金を提供し、医学者?は人体実験により速やかにその効果を確め、そのデータをもとに強力な生物兵器の開発を急いだ。
軍のメリット
・強力な生物兵器の開発
・流行性出血熱などの新たな病原体の発見による新兵器の開発
・凍傷実験・ワクチン開発などによる味方兵士の防御
・毒ガス実験による経済的な兵器の開発
医学者?のメリット
・ペストやコレラ等日本では出会えない病原体の研究
・流行性出血熱などの新発見の病気
・凍傷やワクチン研究による新しい治療法の発見
・毒ガス実験等病理データの蓄積
医学者?は人体実験によって様々な研究テーマに取り組んだ。
軍部は、これらの実験を絶対秘密にしたかったが、戦後、731部隊員はそれらを論文にまとめて医学界で出世したためそれはかなわなかった。(驚くことにアメリカからも日本の大学からもお咎めが無かった。)
日中戦争が連合国との戦争へと拡大し、国内は総動員体制下となった。医学界も体制化に組み込まれ、医学界は軍部の動向に沿うようになる。その中で、軍部を利用する医学者も現れた。
旧日本軍「731部隊」、人体実験で23人博士号取得―韓国メディア

細菌戦は行われた
731部隊は、中国各地で細菌戦を行った。
主なものは、1940年農安・大賚(だいらい)細菌戦、農安細菌戦、寧波(にんぽー)細菌戦、衢州(くしゅう)細菌戦1941年常徳細菌戦、1942年淅贛(せっかん)細菌戦、廣信(こうしん)・廣豊(こうほう)・玉山(ぎょくざん)細菌戦。
陸軍は細菌兵器を大量殺戮兵器として期待した。人体実験、野外人体実験、大規模野外人体実験、中国の主要都市(非占領地)への細菌戦の試行、実際の戦場での試行を行い、細菌戦のデータを蓄積した。各種病原体の撒布方法を改良し、兵器はまだ開発中であったが、民衆に多くの被害者を出した。病原体はペスト菌と炭疸菌が有望視され、ペストノミ(PX)は最も期待された。
731部隊員の金子順一は昭和19年に「雨下撒布ノ基礎的考察」等の論文を書き、つぶさに細菌戦の調査をしている。
『金子順一論文集(昭和19年)』紹介
七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書

【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅱ 中支・寧波細菌戦出動始末
―元千葉班・工務班 H・F
・・・
こうした周辺の偵察行動を踏まえて、細菌攻撃班が出動した。これは、軍医を含む専門班である。いずれも中国服に着替えて、朝、トラックで基地を出発する。
細菌の実験が行なわれる場合は、その日の朝、各天幕ごとに命令受領の際、「本日は、どこどこで細菌の実験を行なうので、その方面の水は飲まないように」と通達があった。
出動した細菌の専門班は、あらかじめ調べてあった川の上流に潜入して、試験管に入れたペストやチフスやその他の細菌を川に流すらしい。井戸に投入することもあったと言う。
夕方、彼らは基地に帰ってきた。あらかじめ、衣類や車は、外で噴霧器を用いて消毒してから、基地に帰って来る。そして、風呂の天幕に行って、消毒風呂に入る。ヌルマ湯で消毒臭い風呂から出ると、普通の風呂に入って、臭いを落とすのだが、なかなか、臭いは消えないものだ。
「今日は細菌を使ったな」というのは、否応無く分かってしまう。それから数日すると、細菌を混入させた川の周辺一帯に、効果測定班が出て行った。写真班も同行した。
軍医を先頭にした1班が、周辺の集落の様子や、川や井戸の水の汚染度などを調べるのだ。住民に病名の分からない病人が出たと言う情報をキャッチすると、軍医は、「薬」を持って「治療」に出かけた。患者の治療という名目で、逆にいろいろ調べたのだろう。血液などを採取して帰ってきたようだ。治療法の実験もあった。このような、細菌の実験は全部で3回くらいあった。いずれも、周辺で、正体不明の病気が流行した、と聞いた。
このような日常を目撃していると、どうやら今回の「出張」は、細菌戦の実戦訓練を目的としているらしいと、我々にも察しがついた。
・・・・(中略)・・・
中国人集落の上で細菌爆弾が炸裂
当日の朝、例によって朝の命令受領時に、「本日、○○方面に爆弾を投下するので、注意せよ」と通達されたのである。
我々のうち1人として、投下されるのが、ただの爆弾ということを信じている者は、いなかった。投下されるのは、100パーセント間違いなく「細菌爆弾」なのだ。
爆弾を投下するという航空機は、はるばる平房の部隊本部から飛来すると言う。731部隊は、こうした実験に備えて、専用の飛行機と飛行場―つまり航空班を有していた。
やがて基地の上空に、複葉の小型機が飛んできた。おそらく、平房を出発して、あちこちの飛行場経由でやってきたのだろう。低い爆音を残してさほど高くはない上空を通過していく。将校や居合わせた隊員たちは、木造棟や天幕から飛び出してきて、「あれだ、あれだ」と叫びながら、一斉に飛行機に向けて、手を振った。
飛行機は飛び去った。おそらく前もって選定された目標の中国人集落へ、爆弾を投下したに違いない。それも、「細菌爆弾」をだ。
私は、この航空機による細菌爆弾攻撃を目の前にしながら、安達での一連の実験を思い出していた。
安達(アンダー)の実験場では、どうしたら内部の細菌を殺さずに、しかも有効に「細菌爆弾」を投下・爆発させられるかを、「丸太」を使って、繰り返し実験した。
鉄製の容器だと破裂させるのに多量の火薬が必要となり、その結果生じる高熱と衝撃で細菌が死んでしまう。そこで、鉄のかわりに陶器製の容器が開発されたりした。
そうした、安達での実験の集大成が、今、1つの中国人集落を対象に、行なわれようとしているのだ。もちろん、表向きは、その中国人集落は「敵性集落」と説明されていた。
だが、私には、この細菌爆弾の投下が、実践的攻撃と言うよりも、実験的色合いが強いように思われた。
この爆弾の投下は、出動した全期間を通じて、3、4回、あったと思う。細菌の中身は、おそらくペスト菌であろう。石井731部隊長も、飛来したことがある、と聞いたが、地上の我々には確かめようがなかった。
爆弾が投下されてから1週間ほどたつと、効果測定のために専門班が編成されて、出かけて行く。この時、倉庫から、防毒衣、防毒面等が出されるので、我々は、ペスト菌だとわかるのである。ペストは空気感染なので、防毒衣がないと、味方もやられてしまうのだ。
効果測定には、軍医、写真班、軍属のほか数人の護衛の兵士を含めて、2、30人が出動した。出動した隊員によると、標的とされた中国人集落への途中までは車で行くらしい。
ある地点に来ると、全員車から降りて、防毒衣・防毒面を着用する。白い潜水服を着たような異様な一団となって、さらに山道をたどり集落に入る。
集落では、すでに家を明けて逃げ出す者も多い。あちこちに、発病した村人が横たわっている。例外なく高熱にうなされている。
軍医たちは、すばやく手分けして、病人の状態を調べる。呼吸、脈拍、体温を記録していく。病人が、爆弾を落とされた時、どこにいたのかなどを質問する。手当てと称して、何か処置をしたり、病人の血液を採取する。まだ、発病していない者がいると、当時どこにいたのか訊問する。そして、何か注射している。私の聞いたところでは、健康な者には、あらためて細菌を注射するようなこともあったらしい。結果的に集落は、全滅に近い被害を受けてしまうのである。
写真班は、その情景の1つひとつを、丹念に写している。病人の苦しむ様子も克明に16ミリで撮っている。
ひとおとりの効果測定が済むと、全員、遺留品を残さぬようにして、集落を撤退する。車の所まで戻ってくると、噴霧式の消毒器で防毒衣や備品を徹底的に消毒してから、基地に帰って来る。そして、さらに消毒風呂で、完全に消毒するのだ。


ペストノミ(PX)のよる細菌戦
金子順一論文集(防疫研究室所属)の中に『PXの効果略算法』論文がある。その「第1表 既往作戦効果概見表」は6地域の細菌戦を分析している。PXとは「ペスト菌を感染させたノミ」という細菌兵器のことである。
効果(罹患致死)とは、ペストによって殺害した人の数である。農安ではノミを5g(1gは約2300匹)撒布している。量の少ないもの(g)は地上撒布、多いものは(Kg)は飛行機からの空中散布である。一次は一次流行の死亡者総数、二次は二次流行の死亡者総数。全死亡者は19646人になる。

731部隊は自らペスト菌を撒布し、ペストを流行させた。写真はペスト撲滅隊ではなく、敵兵を担架で運こんだ後、生体解剖したのではないか?(1942年6月3日、大阪朝日新聞)


細菌の大量生産
731部隊では、攻撃用の細菌の大量生産を行っていた。1ヶ月あたり製造量(理論値)は、ペスト菌300kg、炭疸菌600kg、赤痢菌800~900kg、腸チフス菌800~900kg、パラチフス菌800~900kg、コレラ菌1000kgである。(細菌製造班長:柄沢十三夫の供述)
※柄沢はハバロフスク裁判が終わり、恩赦で釈放され日本に帰国する直前、自殺した。

作業は培養基の表面に繁殖した細菌を白金耳でかき取るという危険なものであった。
ノミの大量生産は、石油缶の中にフスマ(麦かす・ノミ床)を敷き、動けなくした状態のネズミ(ノミの餌)を入れて行った。ノミが光を避ける性質を利用して、分離した。ネズミは量産され、捕獲もされた。

ロ号棟の1階が細菌製造工場であった。一連の設備が揃っており、ベルトコンベアで培養缶が運ばれた。

第4章
731部隊の戦後

マッカッサーの厚木飛行場へ降り立った時の第一声は、「ジェネラル・石井はどこにいるか?」だった。アメリカは、自国の遅れていた生物兵器開発の情報を日本から得ようと、当初から画策していた。部隊長石井四郎は、アメリカに巣鴨拘置所に入れられることなく、
尋問を受け、731部隊員全員の戦犯免責と引き換えに、細菌戦のデータを提供した。

石井四郎は、喉頭がんで、67歳で死去している。
アメリカは、ソ連に嘘を言い続けた!!
「同氏は旧陸軍の細菌戦戦術専門家で、終戦当時、ソ連側から細菌戦首謀者として戦犯リストにあげらたが、総司令部は証拠がないと反ばく、米軍諜報部に保護され、戦犯指定をまぬかれ話題となった。」(毎日新聞1959年10月11日)

軍事裁判と戦後処理
ソ連
ソ連は、戦後シベリア抑留者から731部隊員を探し出し、軍事裁判の準備に取り掛かった。
そこで、731部隊で人体実験の事実を知ると、石井らの尋問をアメリカに要求したが、
アメリカの工作によって、思うように尋問ができなかった。
結局、東京裁判で、ソ連は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを断念した。
そこで、ソ連は東京裁判の不完全さに世界の目を向けさせようと、ハバロフスクで、1949年軍事裁判を行い、全世界に発信した。
しかし、アメリカをはじめとする西側諸国はこれを黙殺。
ハバロフスクの12人の被告のうち2人は服役を終えて、帰国、1人は病死した。
1956年日ソ共同宣言に伴って、残り9人の帰国が決定した。
しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
※ソ連は、この裁判で細菌戦の事実を知り、そのデータを収集し、自国の生物兵器の開発に参考にしたのだろう。

中国
撫順の戦犯管理所に731部隊員は入れられ、人道的な扱いを受け、徐々に自らの罪を告白した。1956年の瀋陽の裁判で、731部隊林口支部長であった榊原はソ連戦に備えて、細菌の大量生産などを認めた。
中国は、日中の国交回復を優先させたため、日本軍の組織的犯罪に触れることなかった。刑は、榊原に懲役13年言い渡されたが、執行されず、翌年帰国、田村(篠塚)ら細菌戦犯4人は不起訴、釈放された。
7年にかけて綿密に調べ天皇や731部隊員の責任を追及した日本軍細菌戦調査書は法廷に提出されなかった。
平房近くの村では、731部隊撤退時に、逃げ出したネズミによって、1946年夏にペストが流行し、多くの人が犠牲になった。その後も、ペストの流行に警戒している。



1990年代、731部隊の生体実験の被害者や、細菌戦の被害者が日本政府を相手取って裁判を起こした。(戦後補償裁判)

アメリカ
アメリカは、敗戦直後から調査団を送り731部隊のデータの収集を始めた。
特に1947年1月にソ連から人体実験の事実を知らされると、石井らに戦犯免責を与える代わりに、731部隊のデータを要求し、ソ連に情報が漏れないように、そのデータの独占を図り、自国の生物兵器開発に利用した。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争(枯葉剤)で生物兵器を使用した。


日本
アメリカが731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占したので、東京裁判には誰一人としてかけられなかった。ソ連からの追及もアメリカの保護により、まぬかれた。
そして、731部隊のことは戦後隠蔽された。戦後731部隊員が、アメリカに渡り、731のデータをもとに、3つの細菌戦のレポートを英文で書いている。【Aレポート(炭疽菌)、Gレポート(鼻疽菌)、Qレポート(ペスト菌)の3つ】


細菌戦部隊医学者の戦後
1945年8月石井部隊は帰国。
石井は解散に先立って、部隊員に次のような命令を下していた。
「第1項は、部隊の内容は秘匿せい。隠せ。連合軍による尋問を受ける場合には、防疫給水業務に従事しとったと答えよ。
第2項目目は、官公庁に就職するな。
第3項目目が、隊員相互の連絡はするな。」
石井は占領軍による追及を恐れ、部隊員たちに機密の保持を厳命したのである。
こうして731部隊員たちは、日本全国に散っていった。
米軍との戦犯取引が成立し、東京裁判は1948年11月に判決が下された。ソ連は日本での731部隊の追及が失敗し、ハバロフスク裁判は1949年12月に終結した。1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結された。戦争責任の追及は終了となる。
「他言禁止」はほぼ維持されたが、多くの幹部は公職についた。
大学教授になったり、ミドリ十字を立ち上げてそこに731部隊員を引き入れた。
また、病院を開業したもの、研究所や自衛隊に職を得たものもいた。驚くことに国立予防衛生研究所(今の国立感染症研究所)の初代、2代、5,6,7代の所長が731部隊関係者であった。
人体実験に悩み、自殺した東大助教授もいた!!



以下、『チェルノブイリから広島へ』広河隆一著:岩波ジュニア新書より
「戦後、元731部隊に協力したり、部隊で生体実験をしたりしていた学者は、日本の血液産業やワクチン産業の中心的な役割を果たし、また医学界のトップに立った者もいました。ところでこの人々はまた、厚生省傘下の国立予防衛生研究所にも入りました。広島大学の芝田進午教授は、初代から7代目までの予防衛生研究所の所長のうち6人までが731部隊協力者だったという報告をしています。
さて広島では、ABCC(アメリカが設置した原爆傷害調査委員会)の傘下に国立予防衛生研究所支部が置かれました。この機関に、広島の学者たちの多くが協力しました。」


※ここでも、731とABCCの深いつながりが見える。原爆投下後の広島で日本医学界は総力をあげて、原爆被害調査(治療ではない!)をしたが、そのときも731部隊員が参加している。
原爆の非人道性を非難せず、アメリカの喜ぶような被害調査を実施し、181冊に及ぶ報告書を英訳してアメリカに渡した。これは、天皇制護持と731部隊の蛮行を秘匿するためだった。731での人体実験がソ連によって明らかにされると、アメリカは、石井らに細菌戦のデータをすべて要求し、それらを買収した。そして、731部隊員らを全員に戦犯免責を口頭で与えた。
731部隊関係者が、原爆・原子力の方向へと協力していく。
731部隊・原爆という両者の非人道性をお互い帳消しにしようということか?

以下、『チェルノブイリから広島へ』広河隆一著:岩波ジュニア新書より
「ところがこの直前の9月6日、原爆投下のマンハッタン計画の副責任者であるファーレル准将は、帝国ホテルで記者会見を行ない、「原爆放射能の後遺障害はありえない。すでに広島・長崎では、原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」という声明を発表するのです。
ファーレルの宣言によって、被爆者の存在は社会から隠され、被爆者の国際救援の道は閉ざされました。・・・

禁止される原爆報道・医学研究
ファーレル准将が広島を視察した後、1945年9月19日、GHQ(連合国軍総司令部)は「プレスコード」を発令し、連合国、占領軍の利益に反するすべての報道を禁止しました。これによって、1952年4月に占領が終わるまで、原爆の被害のほとんど不可能になったのです。
記事だけでなく、写真も映画フィルムも同じでした。
・・・・
救援に駆けつけたジュノーさんの活動も妨害します。世界に向かって救援を呼びかけたジュノーさんの電報は、打電できませんでした。
11月には原爆被害の医学研究も禁止しました。これには日本の医学者たちが猛烈に反対しますが、どうにもなりませんでした。
日本側の調査は、団長の都築正男東大教授らによって、45年8月29日に開始されました。しかしやがて都築氏はGHQによって、公職を追放されました。
アメリカは、原爆を落としてから23年も後の1968年になって国連に原爆白書を提出しますが、そこでは残留放射能による被害を否定し、生きている被爆者には病人はいないと報告しています。
被爆者問題に取り組む弁護士の椎名麻紗枝さんは、『原爆犯罪』(大月書店)という本の中で、アメリカが苦しんでいる被爆者が1人もいないかのように見せかけたのは、何よりも原爆の残虐性、非人道性を隠すためだった、と述べています。・・・

何もしなかった日本
日本の政府も、1945年8月10日に、国際法違反だとしてアメリカに抗議した後は、今に至るまで1度も、原爆投下に対して抗議をしませんでした。アメリカも、日本の被爆者に対して謝罪をしていません。日本では国に損害賠償を請求する訴訟が1度だけ行われましたが、このいわゆる原爆訴訟は、判決文の中でアメリカの原爆投下行為を国際法違反とした画期的なものでしたが、損害賠償については原告敗訴が言い渡されました。この裁判の中で1955年に国は、原爆使用は国際法に違反しているとは言えないと主張しました。この主張は今に至るまで繰り返され、被爆国日本が、こともあろうに原爆投下を国際法違反として非難もしないので、世界中が驚いています。(以上 引用)


731部隊員であった石川太刀雄丸は戦後金沢大学の医学部長までなったが、1944年の日本病理学会会誌には次のように書いてある。「昭和15年秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行ったが、これは体数において世界記録であるが・・・・」
731部隊が行った細菌戦の成果を見るために剖検(生体解剖か?)を57体行った。この人は、広島の原爆調査でも、解剖している。昭和48年に、大量の消化管出血で急逝している。


細菌戦部隊医学者の博士論文
731部隊員や他の防疫給水部隊員は、部隊での研究業績を使って学位(博士号)を取得した。
東大、京大、九大、阪大、慶大、岡山大学、日本医科大学、新潟大学、慈恵会医科大学、金沢大学・・・等が学位を与えていた。
例)金子順一・・・授与大学:東大:1949年1月10日・・・主論文名「雨下撒布ノ基礎的考察」『防疫報告』8冊を『金子順一論文集』として申請

旧日本軍「731部隊」、人体実験で23人博士号取得―韓国メディア

731 部隊関係者等の京都大学医学部における博士論文の検証


陸上自衛隊衛生学校
自衛隊では今でも、細菌戦の研究しているのではないか?日本は細菌戦について全く反省していない!!

戦後、陸上自衛隊の衛生関係には731部隊などの元細菌戦部隊員が就職した。衛生学校では『保安衛生』(後『防衛衛生』のほかに『衛生学校記事』を発行していた。
第4代衛生学校長の金原節三は「衛生学校の研究部員とか部隊付け隊員などによる研究業績の中には、いわゆる秘扱のものもあり、市販の許されている『保安衛生』に発表するわけにゆかぬものもありますので、私の発案で、衛生学校の責任で、別に『衛生学校記事』を発行することになった」と述べている。
目次を見ると、細菌戦の記事(米軍資料の翻訳)が掲載されている。自衛隊は戦前を継承しているのではないのか。現在防衛省は『衛生学校記事』は「ない」として、公開を拒否している。

井上義弘   第5代衛生学校長 南方軍防疫給水部
中黒秀外之  第6代衛生学校長 731部隊
園口忠男   第8代衛生学校長 731部隊

「ジャーナリスト同盟」通信より
<衛生学校記事の情報公開裁判>
「衛生学校記事」といっても、素人にはわからない。原告の和田千代子が報告記事を載せている。
それによると、「衛生学校記事」とは陸上自衛隊の衛生学校が発行している内部研究誌。同誌に1941年当時、陸軍省医事課長として731部隊等による細菌戦に関与していた軍医大佐・金原節三、1940年から敗戦まで731部隊に所属していた軍医少佐・園口忠男らが、同誌に細菌戦に関する文章を載せている。
ということは、731部隊の悪しき成果を自衛隊も継承している。そこで和田らは、防衛省に731部隊関連の情報公開を求めている、ということのようだ。

これも注目される動きである。731部隊の悪しき実績は全て米軍に持ち込まれて、日本には存在しないとされてきた。実際は、日本の自衛隊にも継承されてきている。その資料がある。それの情報公開を求めて裁判を起こしているのである。

民主的な政権交代によって、731部隊関連の極秘資料を公開させる責任と義務が日本国民にある。次回公判は4月17日11時45分。
<SOSの永田町>
70年以上前の蛮行を特定秘密にすることは許されない。今まさに世界から日本の歴史認識が問われている。国家神道を引きずる安倍内閣のもとで特定秘密保護法、靖国参拝、次いで戦争する集団的自衛権行使の閣議決定と、政変がらみの政局は緊迫の度を増している。

それにしても、こうした小さな信念を貫く運動は、必ずや花を咲かせる必要があるだろう。13億人の人民も注目している。
2014年3月6日2時25分記

防衛省の秘密主義に迫れ

自衛隊の証拠隠し
高裁は海自の証拠隠しも認める

第5章
731部隊を告発する

3000人以上の生体実験!中国での細菌戦!
我々日本人は、この現実にどのように対処したらいいのだろうか?
中国では731部隊跡地を世界遺産にしようと、活発な動きが出てきた!!

【北京時事】中国国家文物局は18日までに、世界文化遺産登録を目指す45件のリストを公表した。旧日本軍の細菌兵器開発のため設置した旧関東軍防疫給水部(731部隊)跡地も加えられた。
731部隊跡地は黒龍江省ハルビン市にあり、一部の施設が保存され、陳列館が公開されている。
18日の中国紙・新京報によると、跡地は2002年に世界遺産登録の申請が計画され、10年に3000人余の被害者名簿が公表されたのを受け、申請の動きが活発化。ハルビン市は11年、跡地を保護する条例を施行した。
時事通信 2012年11月18日(日)18時55分配信

中国は731部隊遺跡の世界遺産への申請を通じて日本の恥をさらす、ロシア専門家が指摘―中国メディア

戦争の語り部 篠塚良雄
1923年千葉県生まれ。39年5月少年隊として731部隊に入隊、ハルビンへ。
教育を受けた後、細菌製造班に配属された。
・・・・
ペスト菌を使った人体実験と生体解剖に関与
最初に生体解剖に関わった中国人男性のことは、今も良く覚えています。私は、その男性からにらみつけられると、目を伏せる以外にありませんでした。ペストに感染させられたその男性は、ペストが進行するに連れて、顔や体が真っ黒になりました。まだ息のある状態で、特別班によって、裸のまま担架で解剖室に運ばれてきました。
軍医から解剖台の男の体を洗うように命ぜられ、ホースから水を出してデッキブラシで体を洗いました。手や足がもたついていました。軍医がその男の胸に聴診器を当てて心音を聴きました。聴診器が体を離れると同時に、解剖が始まりました。命じられるままに、解剖されて切り刻まれた臓器を、コルペンに入れたり、準備していた培地に塗りつける作業を行いました。2ヶ月足らずで、5人の中国人を殺害しました。3人目の生体解剖を終えた後に、班長から、「お前もやっと1人前に近づいたな」と言われました。
上官に命ぜられるままに実行したことですが、戦争犯罪の実行者としての責任は私にあります。731部隊が犯した戦争犯罪は絶対に隠蔽してはなりません。終生、世界に伝えていく責任を負っています。


戦争の語り部 三尾豊
1913年11月岐阜県生まれ。34年1月「岐阜歩兵第68連隊」に入隊。41年4月大連憲兵隊本部に所属。大連憲兵隊時代「満鉄調査部事件」と「大連黒石礁事件」に関わる。1945年8月25日逮捕され、46年3月シベリアに送還。50年7月ソ連から中国に引き渡され「撫順戦犯管理所」(日本人捕虜969名)に収容される。56年、釈放され帰国。57年「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、証言活動に取組む。1998年7月85歳で逝去。

●大連黒石礁(こくせきしょう)事件
1943年、大連地区からソ連のチタ方面に向けての「怪電波」を捕え、海岸地区黒石礁の中国人経営の写真館がその発信源であることを突き止めました。半年の内定後、憲兵60人動員して写真館を包囲し、送信者を逮捕し、機器を押収し、家族・同居人を連行しました。取調べの結果、無線士「沈徳龍」という28歳の朝鮮族で、大連駐在のソ連領事館の指揮下で諜報活動していたことが判明しました。翌日には、天津憲兵隊と協力して、王燿軒、王学年も逮捕することができました。彼らを大連憲兵隊に連行し、連日に渡って拷問にかけましたが、期待した結果は得られませんでした。
何の資料も証言も得られないまま、逮捕した4人(沈徳龍、李忠善、王耀軒、王学年)を731部隊に送致しました。その護送は私に任命されました。部下に「便所は一緒に入り、他者との会話は一切禁止する」などと言い渡し、衣服の下に捕縄をかけて、超特急アジア号のトイレつきの客車の後部9席を使って出発しました。ハルビン駅に着いて、私は移送状と4人を、待ち構えていた私服の憲兵に引渡し、身柄受領書を受け取りました。・・・


削られた731部隊
家永訴訟(教科書裁判)


今の自民党は忌まわしい過去を消し去ろうとしている!!
【声明】自民党による教科書会社幹部への圧力に怒りを込めて抗議する

家永さんが書いた教科書の「731部隊」の記述が検定によって、削除されたが、この部分に関しては、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。
731部隊の事実は、最高裁で認められた!!

家永教科書裁判は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎が教科用図書検定(教科書検定)に関して、「教科書検定は憲法違反である」と国を相手に起こした一連の裁判。

「私はここ一○年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三八・九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるためにあえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としてもだまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます」(「家永訴訟」)。

1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年第3次訴訟がある。1997年、第3次訴訟の最高裁判決「教科書検定制度は合憲」をもって敗訴が確定した。
検定内容の適否については、7件中4件について、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。
・草莽隊による年貢半減の公約。
・南京大虐殺
・中国戦線における日本軍の残虐行為。
・旧満州731部隊。
以上の検定を違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。
※この83年度の検定では削除された731部隊の生体実験は87年度検定では認められて教科書にも登場している。

軍医学校跡地で発見された人骨
誰の骨なのか?(何で頭蓋骨が欠けていたり、銃弾の貫通した跡があるのか?)
・1989年、新宿区戸山の旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の建設現場から、多数の奇妙な人骨が発見された。新宿区の鑑定によると、複数のアジア系人種を含み、10数体の頭骨には、銃創や刺創のあるもの、手術痕のあるものが見られ、アジア各地から集められた軍医学校の医学標本類であることがわかった。
・発見された場所は、旧陸軍軍医学校跡地。その敷地内にあった防疫研究室は、731部隊(防疫給水部隊)の中枢機関だった。
※戦時中、731部隊はハルビンで人体実験を行ない、その標本類を飛行機で、東京に運んでいたのではないか?
・人骨は、1991年9月~92年3月、新宿区が独自鑑定に取組み、その後、厚生省(当時)が由来調査に取組み、2001年に調査結果を公表。今後の調査の可能性を残して、国立感染症研究所内に保管されている。

軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

「さらに多数の人骨埋設か 新宿の旧陸軍軍医学校跡」(昨年6月の朝日新聞記事)

731部隊国家賠償請求裁判
※731部隊の人体実験等が裁判所によって事実認定された!!

1995年、731部隊被害者の遺族敬蘭芝(けいらんし)さん、王亦兵(おうえきへい)さんら8名は、日本国に対し、731部隊の人体実験による殺害行為に基づく損害賠償請求の訴えを東京地方裁判所に起こした。

原告:敬蘭芝さん・・・1941年、夫の朱之盈(しゅしえい)とともに憲兵隊に捕まり、激しい拷問の末に本人は釈放されたが、夫はそのまま特移扱いになり、帰らぬ人となった。(牡丹江事件)
原告:王亦兵さん・・・1943年、父の王耀軒と叔父の王学年が憲兵隊に捕まり、拷問の末731部隊に送られ、犠牲者となった。(大連黒石礁事件)

東京地裁(1999年)は、
①「原告ら本人の各供述、証人三尾豊〔憲兵〕の証言は、極めて真摯かつ平明率直に真実を述べたもの」、
②731部隊は、「細菌兵器の大量生産、実戦での使用を目的としたものであり、そのため、『丸太』と称する捕虜による人体実験もされた」、
③「1945年8月、証拠隠滅のため施設が徹底的に爆破された」、
④「戦後の極東裁判ではその責任が問われなかったがソ連及び中国の軍事裁判ではその実態が追及され、責任が問われた」、
⑤「731部隊の存在と人体実験等がされていたことについては、疑う余地がない」、
⑥「我が国の占有侵略行為及びこれに派生する各種の非人道的な行為が長期間にわたり、多数の中国国民に甚大な戦争被害を及ぼしたことは、疑う余地のない歴史的事実」と認定し、「我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と判決した。

2005年4月19日、東京高等裁判所において、731部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟(この訴訟については、戦後補償裁判(2)もご覧ください)の控訴審判決が言い渡されました。この訴訟は1995年に提訴され、1999年9月22日に、東京地裁が原告らの請求を棄却する判決が言い渡されており、原告側が控訴していました。・・・

(2)の争点について、旧日本軍の行為については法例11条の適用はなく、中華民国民法による請求はできない、としました。その理由は、第一に、旧日本軍の加害行為は公権力の行使であるので、国際私法が適用される事例ではないこと、第二に、仮に法例11条が適用されるとした場合であっても、法例11条2項は「日本ノ法律」によって「不法ナラサルトキ」は不法行為にならないと規定しており、大日本帝国憲法下では公権力の行使による不法行為については損害賠償を求めることができなかったとして、いわゆる国家無答責の法理を採用し、中華民国民法の適用を否定しました。

戦後補償裁判――(21) 731部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟

国家無答責


731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件訴訟 最高裁決定 2007年5月10日 10:45
主文
本件上告を秦却する。
本件を上告審として受理しない。
上告費用及サ申立費用は上告人兼申立人らの負担とする。


細菌戦国家賠償請求裁判
731部隊等は、日中戦争中、中国各地で、ペスト菌やコレラ菌を用いた細菌戦を実行し数万人の中国民衆を殺害した。1997年と99年に、淅江省(せっこうしょう)と湖南省(こなんしょう)の計180人の細菌戦被害者が日本国に謝罪と賠償を求め提訴した。地裁・高裁で計13人の専門家と2人の元部隊員が証言した。

東京地裁(2002年)と東京高裁(2005年)は、
①731部隊や1644部隊は各種の人体実験を行って細菌兵器を開発・製造し、淅江省の衢州(くしゅう)・寧波(ニンポー)・江山、湖南省の常徳で細菌戦を実施した。
②細菌戦は日本軍の戦闘行為の一環として陸軍中央の指令により行なわれた。
③衢州や常徳のペストは周辺に大流行した。
④原告被害地だけでも1万人を超える犠牲者を出した。
等の事実を認定した。
また細菌戦が1925年のジュネーブ議定書の禁止する「細菌学的戦争手段の使用」に該当し、日本国には中国に対するハーグ陸戦条約3条に基づく賠償責任が成立(但し1972年の日中共同声明で消滅)したと認定した。
最高裁判所は2007年5月に上告を棄却。
しかし、中国では若い世代が追悼行事や被害者調査に参加し、日本政府に謝罪を求めている。

細菌戦の事実を認定!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。

細菌戦は国際法違反の戦争犯罪である-細菌戦裁判の
提訴にあたって


判決文全文

終わりに
中国が世界文化遺産登録を目指す45件の中に、731部隊の跡地が加えられた。
同様の遺産として、1996年に広島の原爆ドーム、1997年にポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所等が登録されている。決して忘れてはならない、繰り返してはならない人類の経験であり、平和のための遺産である。

日本は、かつて侵略戦争によって、中国やアジアの人々に多大な犠牲を強いた。現在も、731部隊の被害者を含めて、戦争の被害者や遺族は日本に責任を取るように訴えているが、日本政府は無視し続けている。
731部隊が戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きい。
医学者が協力して設定した、原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの被害者を切り捨てるための基準となっている。医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いている。
731部隊跡地は、間もなく世界遺産に登録されるであろう。日中戦争中に、日本が中国に造った部隊施設が、なぜ世界遺産に値するか、731部隊を知らない人には不思議なことかもしれない。外国からも多くの人々が見学し、その眼で日本人を見るだろう。
「日本と日本の市民には歴史に関する記憶喪失があるとの国際的風評がある」という。日本人にとって、731部隊跡地の世界遺産登録は、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会になる。

2013年「731部隊パネル展」より



西里扶甬子講演会
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演1(2014)


「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演2(2014)


「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演3(2014)


松村高夫講演会
「731細菌戦部隊と現在」
731細菌戦部隊と現在 1 慶大 松村高夫


731細菌戦部隊と現在 2 慶大 松村高夫


731細菌戦部隊と現在 3 慶大 松村高夫


常石敬一講演会
「731部隊とは?今問う意味は」1
「731部隊とは?今問う意味は」1 神奈川大学 常石敬一


「731部隊とは?今問う意味は」2  神奈川大学 常石敬一


「731部隊とは?今問う意味は」3 神奈川大学 常石敬一



自国民の原爆被爆被害を日本軍部が喜んで米国のために調査した本当の理由
封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
自国民さえも実験台として、嬉々として自国民の被爆調査を行い、自発的に英訳して調査報告書を渡す。全ては、七三一部隊の秘匿、そして、天皇に対する免責を勝ち取るためだったのではないのでしょうか。この取引は十分に功を奏したようで、太田昌克氏の著作にも人体実験に対する米国の追求はどこか間が抜けたものとして書かれています。単純に細菌兵器の技術、実験結果を知りたかったためとしては、やはり片手オチ。米国は、第二次世界大戦で最も知りたかった情報を自ら差し出してきた日本軍部と取引したのではないでしょうか。そうしない限り、この七三一部隊の隠蔽理由(いまだにこの部隊はでっち上げだという論陣を張る人がいます。それは、悪魔の飽食の書評を見ただけで明らかでしょう)をどうしても納得できません。

原爆被爆者は、軍部免責、天皇制維持のための、数少ない有力なカードだったのではないでしょうか。

天皇や三笠宮も731に行っていた?(生体実験を知っていた?)40分あたりから
unit731



重松逸造という男
プルトニウム元年 第3作 1993年8月放送 3/5


山下俊一トンデモ発言


山下俊一トンデモ発言2

731の経験を悔やんだ医学者もいた!!
「731部隊と医学者たち」

小佐古内閣官房参与辞任・20ミリシーベルト問題


明治大学シンポジウム(2013年)より
吉中講演(京都民医連中央病院院長)
「戦後の医学界と731部隊」


奈須講演(細菌センター理事)
「731部隊の資料」


福島の苛酷な現実!!
甲状腺がん33人

なぜ、日本医学界は福島の医療を批判しないのか ...

フランスFR3放送「フクシマ・地球規模の汚染へ」

ドイツZDF フクシマの嘘 (連結済み)29分23秒

米国による封印された原爆報道と残留放射能



731部隊が人体実験や細菌戦を行ったことは明らかである!!
日本政府は、速やかに情報を公開せよ!!

【七三一部隊展2013実行委員会より】
(最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!)         








七三一部隊展2013実行委員会
E-mail exhibition731@yahoo.co.jp
http://ameblo.jp/supportvictim731/

パネル集1993年「731部隊展」





安倍首相の「積極的平和主義」とは、安倍首相の行動を見ていると、「先の戦争は、侵略戦争ではなく、アジアを解放するための戦争であった!日本人は、天皇のために命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げ、自信を持って、軍事力を強化し、紛争を外交ではなく力で解決しよう!」と言っているように見える。


積極的平和主義って何?

首相「批判されても責任果たすべき」 靖国参拝巡り


改めて、昭和天皇と皇族方の戦争責任を問う!!
戦前・戦中と天皇は現人神であった。(今もそうかもしれない?)
誰が天皇に逆らえるのか?天皇は、先頭に立って、戦争を指導した!!


長谷川三千子氏の追悼文全文



その一方、東条は木戸や他の天皇教徒たちに説得され続け、ついに歴史の真実を封印する決心をするに至った。かくして、東条は「天皇を欺して」戦争の指揮を執ったのだということになった。
あの戦争は、「朕の戦争」ではなく、「東条の戦争」ということになった。多くの日本人が赤紙1枚で戦場に行ったのは、天皇のためではなかったという、世にも不思議な物語の誕生であった。後にウェッブ裁判官は当時を回想し、マッカッサーと天皇の第1回会談について、こう語っている。
「支配者は侵略戦争を開始した責任を転嫁することはできない。生命の危機からそうせざるを得なかったと釈明することは許されない」
私は思うのである。何人があの戦争に反対しえたであろう。何人が天皇が平和を唱えたら暗殺しえたであろう。何人が平和を訴える天皇を精神病院に送りえたであろう。東条が東京裁判で言った言葉は重たかったのである。
「我々は陛下のご意志に逆らうことはありえない」
『天皇のロザリオ』 上巻:鬼塚英昭著より



日本の悲しい歴史!!

ハバロフスク軍事裁判!!
「スミルノフは公開裁判で731部隊の行為を明らかにし、アメリカ主導で行われた東京裁判の不完全さに世界の目を向けようとしたのである。」
(プライム10「731細菌戦部隊」より)

アメリカは細菌戦のデータを独占し、天皇と731部隊員を裁かなかった!!アメリカにも大きな責任がある!!
ニュルンベルグ裁判では、非人道的な実験をした医師を裁いた!!


日本政府は、731部隊をはじめ、大事な戦史資料を廃棄するな!!
公開せよ!!


日本政府は、アメリカから返還された731部隊の資料を速やかに公開せよ!!

日本政府は、過去の日本軍の忌まわしい史実を教科書から消し去っている!!
人体実験被害者、細菌戦被害者の悲鳴が聞こえませんか?

731部隊の犯罪(生体実験、生体解剖、細菌戦等)は、アメリカ政府が免罪しても、世界の目が許さない!!

戦後マッカーサーと昭和天皇の極秘会談は11回行われ、その中で沖縄や731のことも話し合われたのだろう。GⅡと731部隊幹部との話し合いは鎌倉で行われ、731部隊員の戦犯免責と引き換えにアメリカに情報を提供するということで合意した。
東京裁判では、天皇と731部隊員は戦争犯罪人から外されたが、その人たちの行った中国をはじめとするアジアでの加害行為は、消し去ることはできず、子々孫々まで語り継がれるだろう!!
今の安倍自民は、過去の史実をことごとく消し去ろうと必死になっている!!



現代史スクープ・ドキュメント
731細菌戦部隊 前編(1992年)


アメリカ、ユタ州。今年(1992年)3月、私達はグレートソルトレイク砂漠の只中に位置する米軍基地を訪ねた。
アメリカ陸軍ダグウェイ実験場
実戦を想定した生物化学兵器の使用実験が行われるアメリカ唯一の施設である。
現在、生物化学兵器は、国際条約で禁止されているにもかかわらず、多くの国でその開発が続けられている。
この基地の設立目的は生物化学兵器への防御のためとされている。
湾岸戦争で使用された毒ガスマスクも、この基地でテストされた。
基地の一角にある文書館。
1942年に基地が作られてから今日までの生物化学兵器に関するあらゆる研究報告書が保存されている。
私達は、この文書館で旧日本軍の細菌戦部隊、731部隊の膨大な報告書を発見した。
2000ページに及ぶ細菌の感染実験のデータ並びにアメリカの科学者による731部隊の調査報告書である。
細菌を使った感染実験のデータ。
実験材料として使用されたのは、400体以上の人間である。
報告書には、実験に使われた細菌の種類、そしてアメリカの調査に協力した日本人研究者の名前が列挙されている。
石井四郎、731部隊部隊長である。
甲状腺、肝臓、リンパ節、脊髄、肺。
実験材料にされた人体はすべて解剖され、あらゆる臓器、器官がつぶさに観察されている。

人為的な細菌を感染させた人体には、標本番号が付けられている。
このデータがとられたのは、日中戦争下の旧満州。
実験に使用された人の多くは、現地の中国人である。
報告書は、731部隊が行った人体実験の全貌を明らかにしている。
731部隊が本拠を置いたのは、旧満州。現在の中国東北地方である。
当時日本は、軍事力でこの地を占領し、傀儡(かいらい)国家である満州国を建国していた。
満州国の首都、新京。現在の長春である。
日本は、ここ新京を拠点に、満州全域を治めた。
町の中心部に残る旧関東軍司令部。
強大な軍事力を誇る関東軍は、日本の満州支配の要(かなめ)であった。
関東軍は、軍事面だけでなく、警察機構など満州国の治安や政治をも実質的に支配していた。
安定した権力と広大な大地、さらにペスト、コレラなどの伝染病の存在。ヨーロッパ視察で細菌兵器の威力を確信した石井四郎は、ここ満州で細菌戦の研究を始める。
石井は1936年、関東軍に防疫給水部を設置。兵士を伝染病から予防し、前線の水を確保することを表向きの業務とした。
後の731部隊である。

石井が731部隊の本部を設けたのはハルビン郊外である。
そして、ソビエトとの国境沿い、ハイラル、孫呉、林口、海林の4か所に支部を設置。
731部隊は、本部、支部合わせて3000人を擁する大部隊となった。
ハルビンから南へ20km。
私達は、731部隊の本部があった平房を訪ねた。
石井は、陸軍省の許可を受け、1939年細菌戦研究を目的とした巨大な研究施設を作り上げた。
それまで、一寒村に過ぎなかった平房は一大軍事基地に変貌を遂げた。
しかし、731部隊の活動は、一般市民はもちろん、部隊員の家族にも一切秘密にされた。
731部隊本部跡
石井はこの建物に部隊長室を置いた。
元731部隊員が書いた完成直後の部隊地図。
鉄条網に囲まれたおよそ8km四方に及ぶ敷地には、専用の飛行場をはじめ、研究室、学校、そして神社まで設けられていた。
終戦直前ソビエト軍による接収を恐れた731部隊は、証拠湮滅のために、主な施設を自らの手で徹底的に破壊した。
そのときの破壊の跡が生々しいボイラー室。
ここには発電機もあり、細菌の培養に適した室温を保つための暖房をまかなっていた。

731部隊には、陸軍軍医学校をはじめ、大学や民間研究所から当時の日本医学界の最高水準にあった数多くの研究者が集まっていた。
巨額な資金と恵まれた環境の中で研究者たちは細菌戦のための研究に没頭していった。

今回アメリカで発見された人体実験のデータはまさにここでの研究で得られたものだったのである。
炭疸菌、ボツリヌス菌、コレラ菌、ペスト菌・・・
報告書によると、ここで研究された病原体は20種類以上に及んでいる。
731部隊は、研究、実験、製造など8つの部に分かれ、細菌兵器実用化のための研究を進めた。
731部隊跡から発見された研究用器具の数々。
菌を寒天や肉什、ペプトンなどによって作られた下地に植え付け、一定の温度と暗さが保たれた所で培養した。
戦争末期には、ペスト菌、コレラ菌、炭疸菌などの大量生産が可能となっていた。

石井式培養器
細菌兵器の実用化のためには、より強力な菌とその感染方法を開発することが必要だった。
この実験のために生きた人間が使われたのである。
実験材料とされたのは、現地の中国人やロシア人、朝鮮人だった。
本部の傍らに敷かれた引込線。
実験材料となった人間を運び込む目的でも使用された。
部隊に働かされていた方さんはそのときの様子を目撃している。
「列車が止まるとロ号棟の4つの門が開きました。白い帽子、マスク、白衣、ゴム靴を身につけた日本人が、荷車を押して出て来ました。列車からは2人ずつ頭と足が交互に縛られた人間たちが次々に下ろされ、ロ号棟の中に運ばれて行きました。私が見たところでは、彼らはまだ息をしていました。」
ロの字型をした研究棟はロ号棟と呼ばれた。
このロ号棟の内側には、実験材料となった人々を監禁するための監獄があった。
終戦時、731部隊は、特にこの監獄を徹底的に破壊した。
「この一帯が731部隊の特設監獄の跡です。」
ここに監禁された人々は、マルタと呼ばれ、その数は常時百人を超えていたという。
1人1人のマルタには番号が付けられ、様々な人体実験に使われていったのである。
「ペプトンと肉エキス、食塩0.5.・・・・」
田村良雄さんは、731部隊製造班に所属し、細菌の大量生産に従事した。
強い菌を得るための人体実験にも立ち会っている。
「細菌自身、は、動物体を通さなければ毒力が上がらないんだと。こういう点は言っていたんですね。言えば簡単なあれならば、一度細菌を動物体―人間の体に通す。それで毒力を高めると。
もう一つ言える点は、残酷そのものだという点は、息を引き取るか引き取らないかの内に解剖を始めるということです。
それは、やはり細菌の点から言って、時間が経てば、雑菌が生えてくると、腐敗が進行すると、そういう点から早い時期に目的のことをやると。」
731部隊で繰り返された人体実験。
このような人体実験によってしか得られないデータが今回アメリカで発見されたのである。
30人の人体を使った炭疸菌の感染実験。
炭疸菌はペスト菌と並んで細菌兵器として最も重要視されていた細菌であった。
現在も兵器として研究が続けられている。
30人の実験例は、皮膚からの感染、飲食物を通しての感染、呼吸器からの感染の3つの感染経路によって分類されている。
標本番号403番
これは、34歳の男性が鼻から炭疸菌を感染させられた場合の実験データである。
この男性は、感染から3日後に解剖されている。
菌が進入して3日後、人体はどのような変化を来たすか。
まず、解剖後の全体像が描きとられている。
鼻からの感染のため、呼吸器系の臓器に顕著な影響が見られる。
炭疸菌の毒素にむしばまれ、細胞が壊死状態となった肺。多くの肺胞で、炎症が起き、肺炎を起こしている。

菌に冒された肺組織のスライド写真。それぞれの臓器は、逐一顕微鏡写真で記録されている。
気管支の組織図。のどから気管支にかけて粘膜がはがれ、強い出血が観察されている。急性の出血性気管支炎を起こしている。
炭疸菌はリンパ管や血管に入ると全身に循環して肺血漿?を起こす。
すい臓は、死亡後、直ちに自分の消化酵素によって溶け出してしまう臓器である。
死亡後の解剖ではこうした詳細な観察は極めて難しい。
どの菌をどのような方法で、感染させるのが最も効果的か。こうした感染実験によってデータが蓄積されていった。

部隊設立から1945年まで日本軍が旧満州で行った史上例を見ない人体実験の記録。
この記録がなぜアメリカに渡ることになったのだろうか。

1945年8月9日、ソビエト軍が一斉に旧満州領内に侵攻した。関東軍は各地で敗退を重ねた。
ソビエト軍は、関東軍の予想をはるかに超える勢いでハルビンに迫った。
ソビエト参戦の直後、陸軍省は、731部隊本部に、全施設を破壊し、直ちに撤退するよう命令を下した。
破壊作業は6日間昼夜を分かたず続いた。
このとき監獄内に収容されていたマルタも全員処分の対象となった。
元731部隊伍長、溝渕俊美さんは、本部で警備、破壊作業に従事した。
「具体的にはね、はぁ、やっとるなという気配はもうすぐにわかったですね。ものすごい異様な臭いがありましたから。それで、8月に、12日の正午過ぎやったかな、13日の正午過ぎやったか、12日の正午過ぎかにマルタ処理作業が終って出てきたわけです。僕の・・・?西山君というのがおりまして、これが、・・・?に報告にいったんです。
「マルタ処理終えました。処理本数404本です。」、ってね。
僕、横で聞いとった。
本部にいた731部隊員は石井部隊長が手配した列車に乗り込み撤退した。
石井は、専用機を使って、証拠湮滅の為に奔走していた。
731部隊大連出張所総務部長だった目黒正彦さんは、このとき、石井と大連で出会っている。
「あのハルビンの本部が全部、満鉄の、借り切って朝鮮の方へ逃げ切っちゃったんですよ。それで、石井さんが、その前にハルビンの部隊が全部無くなったかどうかそのフィルムを私のところに持ってこられて、それを全部現像焼付けして、それで陸軍省へ持っていったんです。最後です。」
石井は破壊後の731部隊本部の様子を撮影し、陸軍省へ提出していた。完璧な証拠湮滅が求められていたのである。
隊員たちは朝鮮半島を南下。膨大な研究資料や物資を貨物船に積み、釜山港を出航した。
貨物船が目指したのは、山口県仙崎港であった。
「3000トンの貨物船2隻は仙崎港に着岸しました。800トンの上陸用舟艇は全部萩港に接岸しました。これが全部25日の午後5時ですね。」
8月25日3000トンの貨物船2隻から大量の物資が降ろされました。
そしてこれらの物資は、あらかじめ決められていた保管場所へと密かに送られていった。
間もなく、731部隊員に解散が言い渡された。
石井は解散に先立って、部隊員に次のような命令を下していた。
「第1項は、部隊の内容は秘匿せい。隠せ。連合軍による尋問を受ける場合には、防疫給水業務に従事しとったと答えよ。
第2項目目は、官公庁に就職するな。
第3項目目が、隊員相互の連絡はするな。」
石井は占領軍による追及を恐れ、部隊員たちに機密の保持を厳命したのである。
こうして731部隊員たちは、日本全国に散っていった。

日本占領後、GHQ諜報部いわゆるGⅡは731部隊に対する調査を開始した。
アメリカは捕虜となった日本兵を通じて戦争中から731部隊の存在を知っていたのである。
GⅡは郷里の千葉に隠れ住んでいた石井を捜し出し、細菌兵器についての情報を提供するよう迫った。
そして石井たち731部隊幹部とGⅡとの会合が密かに鎌倉の料亭で開かれた。
ここで両者の間にある合意が成立した。

石井たち731部隊員を戦争犯罪人に指名しないことを条件にアメリカ側に情報を提供するというものであった。

そして1946年アメリカの生物戦研究所から調査官トンプソンが来日。石井への面談調査を行った。
トンプソンの報告書。
石井への面談を下に細菌の製造法や細菌爆弾の研究成果などがまとめられ、ワシントンに提出された。
しかし、ここには重要な事実が触れられていない。

人体実験の事実である。

石井は、「実験は動物を使った」と主張した。
731部隊幹部の間では、人体実験の人体実験の事実を隠し通すという申し合わせが出来上がっていたのである。
アメリカが東京で731部隊の情報収集を行っていたまさにその頃、ソビエトでも731部隊に対する調査が始まろうとしていた。

当時アメリカと激しく戦後世界の主導権争いを演じていたソビエト。
私達はこの間のソビエトの動きを追った。
第2次世界大戦後、アメリカと並ぶ超大国に躍り出たソビエト。
ソビエトは東ヨーロッパの共産化を進める一方で、原爆など新兵器の開発を進め、軍事大国への道を突き進んでいた。

極東での勢力拡大を目論んで日本参戦を決断したスターリン。
スターリンは大戦で疲弊した国土復興のために戦争捕虜を労働力として利用することを決定した。
スターリンから極東軍司令官に宛てた極秘電報
「50万人の捕虜を確保せよ。」

スターリンは終戦直後早くも日本軍捕虜を抑留し、国内各地で労働力に使役する具遺体的な計画を命じている。
ソビエト軍に抑留された60万人近くの日本軍捕虜は続々とシベリアの奥地に移送されていった。
彼らが送られたのは、多くは寒さをしのぐすべも無い未踏の原野だった。
この抑留者の中には、ソ満国境に置かれた731部隊支部の兵士も数多く含まれていた。
ソビエトは戦前から諜報活動を通じて、731部隊の存在に注目していた。
ソビエト内務省は抑留者の中から細菌戦部隊の割り出しを開始したのである。

極東の軍事拠点ハバロフスク。
各地の収容所を統括する抑留政策の中心ともなった。
抑留者の調査を担当したのは、ソビエト内務省のハバロフスク支部であった。
ここには日本軍捕虜の資料や調書などが残されていた。
「日本軍捕虜は1945年以降各収容所に収容されていました。この資料は大部分が元731部隊員に関するものです。」
内務省では各収容所で得られた捕虜1人1人の個人情報をハバロフスクに集めモスクワへ送っていた。
ソヴィエト側が身元割り出しを急いだ兵士の前歴は憲兵隊、特務機関、そして731部隊であった。
部隊名を慎重に隠して収容されていた元731部隊の兵士たちも徐々に割り出されていった。
ソビエトは捕虜取調べの為に数多くの日本語を話す人を集め、各収容所に配置した。
キムさんもその1人である。
「ハバロフスクから、手製って言いますか、ハバロフスクの通訳が作ってくれたタイプライターで打った小さな辞書みたいなものが送られてきまして、いろんな医学用語とかとにかく731部隊に関係のある用語をかなり送ってもらって助かった訳ですけれども。そういうことで、731部隊に関してかなり大がかりな調査が行われていました。そういうことで731部隊のいろんな人たちを捜し出してその後は1人出て来れば『お前と一緒に勤務したのは誰だと、どこにいる。このラーゲにいるか』とだんだん、だんだん、わかってきます。」

ソビエトは抑留者の中からある重要人物を発見した。
731部隊第4部課長柄沢十三夫軍医少将である。
1946年9月、柄沢は自らの軍歴と731部隊の活動を告白した。
そこには中国での細菌使用実験と細菌の大量生産についての記述が含まれていた。
ソビエト側はこの柄沢の告白に注目した。
ハバロフスクの内務省からモスクワへ連日のように情報が送られている。
「柄沢の供述
石井は中国で細菌兵器の使用実験を行った。柄沢の製造部門では腸チフス菌70kg、コレラ菌50kgを製造できた。
この尋問調書を東京裁判のワシリエフ検事に送付することを検討されたし。」

日本の戦争責任が問われた東京裁判。
裁判はアメリカの主導で進行していた。
一方ソビエトは日本軍のソビエトに対する戦争行為を強調し、日本への影響力を行使しようとしていた。
しかし、ソビエト側の主張は、決め手を欠いていた。

1946年秋、検事スミルノフがモスクワの期待を担って、ソビエト検事団に加わった。
スミルノフは、ニュルンベルグ裁判でナチスドイツの毒ガス実験などを告発した辣腕検事である。スミルノフは、731部隊の存在に注目した。

ハバロフスクではさらに柄沢が供述を進めていた。12月末には自ら人体実験の事実を書き記した。
スミルノフは直ちにウラジオストクに飛んだ。
柄沢をハバロフスクから呼び寄せ、自ら尋問を行ったのである。
そしてスミルノフは、日本国内に潜伏している人体実験の責任者の名前を改めて聞き出した。

ソビエト検事団は、1947年1月8日、G2代表ウィロビー宛に一通の覚書を送った。
「我々は関東軍が細菌戦の準備をしていたという確証をつかんだ。人体実験の事実について石井たち731部隊幹部3名の尋問を要求する。」

ソビエトの要求にワシントンは混乱に陥った。
アメリカはこのとき、まだ人体実験の事実を知らなかったのである。

ソビエトは証拠となる柄沢の尋問調書を送りつけてきた。
この調書によってアメリカは石井たちが人体実験のデータを持っていることを確信。
ソビエトに先駆けこのデータを入手することを目論んだ。

3月、ワシントンの国務省と陸海軍からなる三省調整委員会は次のような方針を決定した。
「ソビエトの尋問には応じる。ただし、石井たちへの再調査を行い、ソビエト側に対して明らかにすべきでないことは言わないように指示する。
石井たちへの再調査のために1人の人物が選ばれた。ノーバート・フェル博士だった。
4月に来日したフェルは、元731部隊幹部への接触を開始した。
ノーバート・フェルは、アメリカを代表する生物化学戦の専門家であった。
フェルはソビエト側の尋問に先立ち、元731部隊幹部たちと連日精力的に面会を重ねた。

私達はこのときすべて尋問調査に同行した情報将校Yが健在であることを知り、接触をはかった。
彼はワシントン近郊に住んでいた。
一旦はインタビューに応じる約束をしたものの直前になって断ってきた。
私達の再度の申し入れに対して彼は匿名を条件に声だけの取材に応じた。

「私が選ばれたのは、これが最高機密だったからでしょう。私はマッカーサー司令部で最高機密に触れる立場にありました。
私達は部隊員に柄沢が供述したことを告げました。日本人たちは多かれ少なかれその事実を認めました。
私達と日本人との関係はとても友好的なものでした。
なぜなら、私達は情報を得るための協力を『依頼』していたのですから。
私達が関心を持っていたのは戦争犯罪ではなく科学的調査だったのです。
一番重要なことは、日本人のやったこのような人体実験は世界中の他の誰もかつて試みたことは無いという事実でした。」

フェルは石井たちに対して次のことを指示している。
ソビエト側に対しては以下のことを認めてはならない。
・人体実験の事実
・中国での使用実験
・そしてアメリカ側との事前の接触の事実
スミルノフを代表とするソビエト側検事団による石井たちへの尋問はアメリカ側の立会いの下で行われた。

東京裁判のソビエト検事団とモスクワとの間で交わされた往復書簡。
この中にスミルノフが731部隊幹部1人を尋問したときのメモが残されていた。
「菊池との会見 柄沢の尋問調書を見せたが菊池は人体実験の事実を否定した。それらはすべて動物で実験されたと言う」

731部隊の幹部たちにソビエト側が尋問した日付が記録されている。
いずれもフェルの尋問日の直後である。
アメリカ側はことごとく先回りをし、口封じをしていたのである。
石井に対するソビエト側の尋問は、石井が隠れ住んでいた新宿区若松町の旅館で行われた。
この尋問にはアメリカの情報将校Yも立ち会っている。
「最初に石井を訪ねたとき、、彼は病気で寝てました。尋問ができないほど病気は、悪くありませんでした。
ソビエト側には、実際より悪く見せるよう言っておきました。
石井がスミルノフに何もしゃべらないことが私達には重要でした。
私達は、スミルノフの尋問の技術には舌を巻きました。彼は真っ直ぐに相手の顔を見据えー「吐け、ボンバ」とロシア語でまくし立てました。ボンバとは爆弾のことです。
しかし、彼はこの尋問が負け戦であることも気付いたようでした。
最後にスミノルフは吐き捨てるようにこう言ったのです。
『我々がもっと前に石井たちを捕まえてさえいれば、必ず彼らを吐かせることができたはずだ』

ソビエト側の尋問が控えた5月初め、石井はフェルに次のような申し出をしていた。
「私はロシア人には情報を明かさない。もし、戦争犯罪人として訴追しないことを文書で約束してくれるならば、すべての情報を与えることができる。私は細菌戦の専門家としてアメリカ軍に雇われたい。
来るべきロシアとの戦争に備え、私が20年に渡って培ってきた細菌戦の研究成果と経験をあなた方にすべて提供しよう。」


東京裁判はその後もアメリカが主導権を握ったまま推移した。
石井たちから人体実験の裏付けを得られなかったスミルノフ。
ソビエト検事団は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを遂に断念した。

1948年秋、東京裁判は結審した。

こうして人体実験のデータはすべてアメリカの独占するところとなった。
元731部隊の幹部たちは各自の専門分野の報告をまとめ、アメリカ側に提出していくのである。

1947年12月12日。731部隊の調査を終えた生物戦研究所は、アメリカ国防総省に最終報告書を送った。
そこには次のように記されている。

「これは日本の科学者が数百万ドルの費用と長い歳月をかけて得たデータである。
このような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら人体実験には良心の呵責があるからである。
これらのデータは総額25万円で得られた。研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。自ら進んでこの情報を提供してくれた人たちには迷惑がかからないように望みたい。
そしてこの情報が他に渡ることがないようにしなければならない。」

アメリカに提出された人体実験のデータの数は400人分にのぼった。
旧満州で日本軍が行った人体実験の記録はアメリカの軍事目的のために貢献する結果となったのである。

戦後間もなく731部隊をめぐってアメリカとソビエトとの激しい駆け引きが行われた東京。
アメリカに協力して情報を提供した731部隊幹部たちは、その後、731部隊について堅く口を閉ざした。

731部隊の記録とその罪は闇に葬り去られようとしていた。

しかし、東京裁判結審の翌年ソビエトは独自の軍事裁判を開き、日本の細菌戦部隊の罪を告発した。

代表検事席に座ったのはスミルノフ。
被告席には東京裁判の舞台裏でその名が行き交った柄沢の姿もあった。

人体実験のデータはアメリカが独占したが、ソビエトには数百人に及ぶ細菌戦部隊が抑留されていたのである。

ソビエトが細菌戦部隊を裁いた26冊に及ぶすべての裁判資料が40年の歳月を経て初めて公開された。

ハバロフスク軍事裁判。(1949年12月25日~12月30日)

厚いベールに包まれてきた裁判の実像が明らかになろうとしている。


・・・・・

現代史スクープドキュメント
731細菌戦部隊 3(前編、後編、プライム10)


(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)
陸軍軍医中将 石井四郎。
細菌兵器の開発を目的とした秘密部隊731を創設。
自らその部隊長を務めた。
旧満州で活動した731部隊には当時日本の最高レベルの医学者たちが集められた。
今年(1992年)アメリカユタ州の陸軍基地で膨大な報告書が発見された。
731部隊による人体実験のデータである。
ここでは、人為的に細菌を感染させられた人体がどのようにむしばまれていくのか、臓器が一つ一つ解剖され、つぶさに観察されている。
実験材料とされたのは、ほとんどが旧満州の中国人である。
この報告書によって731部隊が行った人体実験の全貌が明らかになった。
日本の戦争責任が裁かれた東京裁判。
この水面下で、731部隊をめぐる米ソの激しい駆け引きが繰り広げられた。
ソビエトのスミルノフ検事は東京裁判で731部隊の告発を目指す。
しかし、人体実験データの独占をもくろむアメリカにこれを阻まれたのである。
東京裁判結審の翌年、ソビエトは舞台をハバロフスクに移し、関東軍細菌戦部隊を裁く軍事裁判を開いた。
裁判は1949年12月、シェフチェンコ通りに面した旧ソビエト軍将校会館で行われた。

ハバロフスク軍事裁判。
元関東軍司令官、山田乙三をはじめとする元関東軍将校と元細菌戦部隊員12人が被告席に並んだ。
スミルノフは公開裁判で731部隊の行為を明らかにし、アメリカ主導で行われた東京裁判の不完全さに世界の目を向けようとしたのである。
しかし、アメリカをはじめとする西側諸国はこれを黙殺。
以来、この裁判は幻の極東軍事裁判とも呼ばれた。

ソビエト連邦が解体した直後の今年1月、私たちは情報公開が進むモスクワを訪ねた。
私達が求めるハバロフスク軍事裁判の記録は元KGB本部の資料館に残されていた。
「ここは未公開文書の保存庫です。ハバロフスク軍事裁判の資料も収められています。」
「山田被告と他の日本軍人を訴追した時の検察資料です。」
「これは被告の尋問調書の原本です。」
「ああ、日本語ですね。」

ハバロフスク軍事裁判の被告たちの尋問調書。
捜査は、KGBの前身に当たる内務省が担当。膨大な時間と人材を投入して、調書が作成された。
そこには、旧満州における731部隊の活動が赤裸々に告白されている。
公判記録と尋問調書、そして関東軍機密文書などの証拠書類。私たちに公開されたハバロフスク軍事裁判の記録は26冊にも及んだ。
日本の細菌戦部隊の行為を世界で初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
26冊の裁判記録がひも解かれ、この裁判の実態が明らかになるのは、今回がはじめてである。

ハバロフスク旧ソビエト軍将校会館。
裁判はここで、1949年12月25日から30日までの6日間行われた。
壇上に裁判官席、検事席、弁護人席が設けられ、被告席は会場の最前列を木枠で仕切って作られた。
ソビエト側が選んだ12人の被告たち。
山田乙三元関東軍司令官。
元関東軍軍医部長、獣医部長、そしてソ満国境に置かれていた731部隊支部の支部長たち、さらには軍属、衛生兵など多岐にわたっている。
裁判長は、チェルトコフ少将、壇上右手には8人のソビエト人弁護士が並んだ。
左手には検事席が設けられ、その中央には代表検事としてスミルノフが座った。
スミルノフにとっては、ニュルンベルグ、東京に続く戦犯裁判だった。

当時ソビエトでは、多くのBC級戦犯の裁判が非公開で行われていた。
その中で、ハバロフスク軍事裁判だけが唯一の公開裁判だったのである。
傍聴席には、連日1000人以上の市民が詰めかけたという。
12人の被告のうち、2人が今も健在である。
731部隊林口支部に所属した久留島祐司さん。
「まぁ、裁判所へ着いた時は、もうこれはすごい裁判やなぁと思いましたね。とにかくもう、外へ人が入れんぐらいおりましたからね。だからこれはすごい裁判やなぁと。まぁ一般の裁判では、秘密裁判で20人、30人並べられて、弁護人なしで、すぐに刑を決められた裁判でしたけどね。私の場合はこれはすごい。兵隊がなぜこのように裁判にかけられなければいかんのか、総監と一緒にね。」
関東軍100部隊に所属した三友一男さん。
「僕なんかも銃殺刑になるんじゃないかという最初から取調べの段階でそういう感じでしたね。ということは、あの途中で、裁判の前に洋服の寸法をとりに来たり、裁判の前日に床屋が入って全部散髪やら何やらしたりとかですね、前日に風呂に特別に入れたりですね、そういうようないろいろあったんで、異様な雰囲気であったんですね。」

26冊の裁判記録。
その№25に6日間にわたる公判でのやり取りがすべて記録されている。
審理は通訳を介して行われ、証言はすべてロシア語で記録された。
1949年12月25日正午、ハバロフスク軍事裁判は開廷。
起訴状朗読をもって審理に入った。
「起訴状―多年にわたり帝国主義日本は極東における侵略の主なる根源地であった。
日本の参謀本部及び陸軍省は日本の有名な細菌戦提唱者石井四郎を長とし・・・」
-起訴状には細菌戦部隊の罪が列挙されている。
・細菌戦を準備した罪。
・生きた人間を実験に使用した人道上の罪。
・中国で細菌兵器を実際に使用した罪。
・ソビエトに対して戦争を準備した罪。
ソビエトは、細菌戦部隊にかかわった個人としての責任を問い、さらには日本の戦争責任を追及しようとした。
「強制感染によって数千人の囚人を殺戮するごとき、あらゆる凶悪な行為をあえてなしたことが判明した。」
起訴状を書き上げるのに元になった内務省の捜査記録、この中には100人以上の証人の証言や被告たちの尋問調書が含まれている。

被告の1人が記した731部隊本部の配置図。
731部隊の組織とその配置が事細かく記されている。
研究棟の内側に描かれているのは実験材料となった人間を収容した構内監獄である。
取調べは731部隊、部隊長石井四郎の下で行われたあらゆる行為に及んでいる。
中国人やロシア人などを使って、人体実験をした事実。
彼らは「マルタ」と呼ばれ、後に殺害されたという事実。
ソビエト側は尋問で得られた供述を分析し、細菌戦部隊の戦争犯罪を立証しようとした。
ハバロフスク軍事裁判の被告たちは、裁判開廷の2ヶ月前に1ヶ所に集められた。当時1号監獄と呼ばれたハバロフスク拘置所である。
ここは、現在も拘置所として使われている。
被告たちはそれぞれ別々の監房に収容され、拘置所内に設けられた取調室で尋問を受けた。
当時、尋問が行われた取調室が残っていた。
「思い出しました。ここでした。」
プルターソフさんは、通訳官としてここでの尋問に連日立ち会った。
「あー、調査をやったときはですね。尋問官はいつもその中へ座っていました。検事はいつもこの所へすわって、細菌学者はここです。通訳は細菌学者と隣りで、あの被告人は検事と隣りでした。
「それをどのくらいやったんですか?」
「さぁ、2ヶ月毎日やっていました。」
被告の1人、三友一男さんのファイル。
学歴や軍歴など様々な個人情報と捕虜になってから収容所の移動などが詳細に記されている。
ソビエト側は、三友さんが上官の命令で人体実験に参加した事実を追及した。
「相当、具体的な、向うがわかっているようなことを匂わせてきていますんでね。そのうち何人かの証人の調書を見せられまして、下に1枚ずつ全部サインするわけですね、調書に。そのサインを見せられて、こういう人間知っているか、こういう人間は記憶あるかというあれで・・・いろいろと名前を見て記憶から薄れとった人の名前まであるのでね。これは、相当向うが調べた上でというさっきの話でね。あまりいい加減なことも言えないなという感じですね。」

三友さんが所属したのは関東軍100部隊であった。
前線に欠かせない軍馬を伝染病から守る仕事を主な任務として誕生した部隊である。
ソビエトは、この100部隊第2部第6課が731部隊同様、細菌戦の研究をしていたとみなしていた。三友さんはこの第6課に所属する軍属だった。
三友さんの尋問調書。
尋問は、1949年10月22日から始まっている。
取調官がロシア語で筆記、通訳された上で、本人がサインするという方法で進められた。
証言内容に矛盾が生じた場合は、他の証人と対面させるなどして追及した。
取調べは時には深夜まで及んだ。
「生きた人間に対する実験の例をあげて下さい。」
「1944年9月、細菌学者の上官に実験に参加するよう勧められました。被実験者8人の食事にヘロインや朝鮮アサガオを混ぜて実験しました。私は、その後の人体内の変化を観察しました。1人が死亡しました。さらに青酸カリが人体に注射され、2人が殺されました。」
人体実験にかかわっていたととれる、この供述にソビエト側は注目した。6日後、この実験に絞って、尋問が行われた。
「22日の尋問であなたは人体実験に関与せざるを得なかったと述べている。もっと、明確に述べて下さい。」
「1人の中国籍の男が、私の調合した薬を服用後、死にました。また、1人のロシア人は、青酸カリを注射されて、その場で死亡しました。」

「あなたは、10月22日の尋問で青酸カリの注射によって殺害されたのは2人だったと言っているが、今度は1人だったと供述している。どういうことですか。」
「それは1人は毒殺。1人は青酸カリの注射によって死んだという意味です。」
22日の証言と28日の証言は青酸カリを注射されて死亡した人間の数が食い違っていた。取調官は、この数の矛盾を追及したのである。
「1人のロシア人に対し、1944年8月、2週間にわたり、様々な実験が行なわれました。
本人が衰弱した結果、上官はこのロシア人に青酸カリを注射して殺すよう命じました。
このロシア人に気付かれないように殺害の3日前に下痢を起こさせ、下痢止めの処置をしました。その後、治らないとして、食塩水を注射しました。翌日治療を装い、ロシア人に0.1グラムの青酸カリを注射しました。ロシア人はその直後、死亡しました。」

「まあ、自分としては当時ね、まあ、18~19歳、20歳前のことでいい、悪いの判断が当然できる年齢であろうという風に言われれば、あれですけれども。一方的なそういう戦時教育を受けた人間としてですね、当然軍隊という組織の中で、与えられた命令については、批判とかそういうことは初めから全然抜きにして、とにかく与えられた命令は遂行するのが自分の責務あるという考えでやったことについてね、それが間違っておったことであれば、それは裁かれてもやむを得ないだろうと。」
ソビエト側は取調室での供述を、裁判の法廷でも繰り返すことを求めた。
(三友被告尋問)
「100部隊で行われていた生きた人間を使用する実験に関し、知っていることをすっかり話してもらいたい。」
「2週間に5~6回毒入りの食事が被実験者に対して与えられました。汁には朝鮮アサガオ、粥にはヘロインを混ぜました。2週間後には衰弱し、実験の役には立たなくなりました。」
「そして、彼らはどうなりましたか。」
「機密保持のため、皆殺されました。」
「どんな方法でですか?」
「ロシア人は青酸カリを0.1g注射されて殺されました。」
こうして公開の場で、人体実験の事実が追及され、人道上の罪が印象付けられていった。
しかし、ソビエト側にとって、被告個人の罪を裁くことだけが、この裁判の目的ではなかった。

「ソ連からの引揚げ問題紛糾」
日本の占領政策を協議する第102回対日理事会が東京で開かれた。
ハバロフスクで裁判が始まる4日前のことである。
「シーボルト議長は、理事会に先立ち、ソ連の日本人引揚げに関する態度について、ソ連を非難することができると述べましたが、開会と同時にソ連側は声明を読み上げた後、全員審議を拒否、議場から退場して、注目を引きました。」
ソビエトには、まだ37万人の抑留者がいるとする日本に対し、ソビエトは抑留者はすべて帰国させたと主張していた。
アメリカは、このソビエトの抑留問題に対する姿勢を厳しく非難した。
この年(1949年)、東ドイツと中華人民共和国が成立。ソビエトを中心とする東側陣営はトルーマン・ドクトリンを掲げるアメリカとの対立を深めていた。
ハバロフスク軍事裁判は、まさに東西の政治的緊張の中で行なわれたのである。
ソビエト側はハバロフスクの法廷で細菌戦部隊の行為を個人の罪としてだけではなく、国家的犯罪として裁こうとしていた。
このための切り札とされたのが、元関東軍司令官山田乙三だった。
山田乙三の尋問調書。
関東軍の最後の司令官山田乙三は、日本のソビエトに対する戦争責任を明らかにする上で、最も重要な人物であった。
ハバロフスクにあった特別捕虜収容所、0045ラーゲリ。00はスターリンの勅命を意味していた。
この0045ラーゲリには元満州国皇帝溥儀(フギ)も収容されていた。
山田をはじめ関東軍参謀たちは、ここで尋問を受けた。
山田の尋問調書は、スターリンのもとへも届けられていた。
ソビエト側は、731部隊の細菌戦研究が関東軍司令官の直接指揮下で行われたかどうかを追及した。
ハバロフスク内務省局長からソビエト内務省抑留局長への手紙。
「あなたの命令で山田を監獄に拘禁した。同じ部屋にキムラという暗号名のスパイを送り込んだ。山田が731部隊と関係していたかどうか判断するためである。
しかし、スパイのキムラの話では、山田は731部隊との関係を否定し続けている。」
ソビエト軍は、関東軍司令部や憲兵隊本部から多くの証拠資料を押収していた。
ハバロフスク内務省では、尋問のために資料の分析を急いだ。
ソビエト側が注目したのは、特別移送扱、特移扱(とくいあつかい)という制度だった。特移扱とは関東軍の憲兵隊や特務機関が、捕まえた中国人などを実験材料として731部隊に送り込む制度である。
この制度は、731部隊の人体実験に関東軍が組織ぐるみでかかわっていたことを示す有力な証拠だった。この表には、抗日活動家など特移扱にするべき囚人の条件が規定されている。

731部隊本部から最も近い大都市ハルビン。
この町の憲兵隊や特務機関が多くの囚人を特移扱として731部隊に送り込んだ。
ハルビンの旧憲兵隊本部。抗日活動やスパイ活動の容疑で絶えず多くの人が逮捕され、ここに連行された。連行された人々に対し、ここで厳しい取調べが行われた後、特移扱などの処分が決定された。こうした憲兵隊や特務機関の施設は市内の各所にあり、現地の中国人から恐れられていた。

ソビエトが押収した憲兵隊の資料。
特移扱(とくいあつかい)で731部隊に送られた中国人の住所、氏名の記録である。
牡丹江事件で、特移扱になった人々の名簿。
その中の1人、朱芝盈(しゅしえい)さんの妻が健在である。
(郭敬蘭さんの証言)
「1941年7月17日のことでした。その日に限って、主人は夜になっても、なかなか帰ってきませんでした。夜の7時半頃に、突然7、8人の日本の憲兵隊員がやって来て『無線機はどこに隠してあるのか。』と尋ねました。私が、『知らない』と答えると憲兵の1人が私を押さえつけ、家の中を滅茶苦茶に引っ掻きまわしました。
翌朝、私は憲兵隊の建物に連れて行かれました。そこには、手錠と足かせをはめられ、ボロボロの服をまとった主人が無残な姿でいました。主人の顔を見たのは、それが最後でした。」
特移扱の処分を受けた人々は、こうした監獄に収容され、731部隊に送られる日を待った。
特移扱の制度について山田乙三は、自分の赴任前に決定されたものであり、事態の多くは知らなかったと供述した。
ソビエト側は特移扱が、関東軍司令官の指揮、命令下で行われたことを認めるよう山田に迫った。
ツビロフさんは、山田担当の通訳官だった。
「取調官の表現が『奨励していたんだ。関東軍の最高責任者としてそれを奨励していたという』風に表現していた。それを尋問調書にも書こうとしたんです。山田大将はそれを『いや、奨励してはいません。』 黙認しました。黙認したことは事実です。」
こうして山田は731部隊について主体的な責任を回避した。
人体実験についてはその事実も知らなかったと供述した。
ソビエト側は、山田の日記に注目した。日記の記述を手がかりに、731部隊とともに細菌戦を研究していたとされる100部隊と山田との関係を追及したのである。
「100部隊における細菌の研究及び生産に関する業務とはどの様なものですか。」
「私は100部隊が、具体的にどんな業務をしていたかは知らず、また報告を受けたことはありません。」
「12月12日、獣医部長会議を開いた目的はなんですか。」
「私は出席しなかったので、どんな問題が検討されたか知りません。」
「5月10日の高橋獣医部長の報告の内容を述べて下さい。」
「内容は記憶していません。」

高橋獣医部長は、100部隊を統括する立場にあった。ソビエト側は、この高橋獣医部長と山田司令官との関係に絞って、尋問を重ねた。
その5日後、山田は遂に100部隊との関係を認めたのである。
「今、思い出しました。高橋獣医部長は、司令官として着任した私に、100部隊が伝染病の予防と合わせて細菌兵器の研究、生産に従事していると報告しています。
100部隊は関東軍司令官たる私に直属する部隊で、細菌兵器の使用法と大量生産に携わっていました。この事実を私は認めます。」
山田は、100部隊、そして731部隊の細菌戦研究について司令官としての関わりを認めたのである。
「司令官山田乙三の証言が手に入ったとき、私達は、それを取調べ中の被告たちに示しました。そして、こう言ったのです。『お前たちは口を閉ざしているが、ここに司令官の証言があると。』彼らは大変な衝撃を受けていました。そして、その後は、ありのままを証言するようになったのです。実際、裁判の目的は、個人を厳しく罰するということではなく、むしろ世界に向かって、この事実をアピールすることだったのです。」
ソビエト側は、この裁判で、731部隊の行為を個人の罪として追及するだけでなく、日本軍全体の組織的な犯罪であり、国家の罪であることを世界に訴えようとしたのである。
山田の供述をきっかけに、他の被告たちも具体的な証言を始めた。

731部隊、安達(アンダー)実験場。
ここでは、細菌爆弾による感染実験が行われた。
証言によれば、実験材料となった人々は杭にしばり付けられ、大量の細菌を浴びた。
本部跡から発見された宇治型細菌爆弾。少量の火薬でも破裂するように陶器で作られている。爆発の熱で細菌が死滅しないように工夫されたのである。
被告の1人が記した地図。731部隊の隊員が中国の戦場で実際に細菌兵器を使ったという場所が記されている。
証言によれば、731部隊は、日中戦争時に3度にわたって細菌兵器の実戦での使用実験を行った。
こうした被告たちの証言から、ソビエト側は日本の国家としての犯罪を立証するための材料を集めていったのである。

そして、ハバロフスク市民が見守る法廷で、元関東軍司令官山田乙三は証言台に立った。
「国家検事、山田乙三の尋問を始めてください。」
「被告山田、関東軍にはいかなる細菌戦部隊があったか述べてください。」
「関東軍には、731部隊、100部隊という2つの細菌戦部隊があり、これは関東軍司令部直轄でありました。
「ということは、それらの部隊は関東軍司令官の直接指揮下にあったというわけですか。」
「その通りです。」
「あなたは、満州領内の731部隊が主として、ソビエト連邦、中国、モンゴルに対する細菌戦準備のために配置されたと以前供述している。これを認めますか。」
「はい、認めます。」
ソビエトはこの裁判の模様をモスクワ放送などを通じて連日世界に伝え続けた。
「裁判官同士諸君、軍事裁判委員同士諸君、この事件は、被告たちの個人的な責任の範囲をはるかに越える重大なものである。東京裁判において、ソビエト側検事は人体実験に関する日本の支配階級の犯罪を暴露した柄沢と川島の供述書をアメリカ側に提出した。しかし、影響力を持つある人物たちが、この犯罪の暴露を阻止することに利益を感じていたようである。人体実験についての証拠書類は東京裁判には提出されなかった。
人間に対する新たな悪事を企て、新たな大量殺戮の手段を準備しようとしているすべての者に対し、世界は、第2次世界大戦の教訓を忘れていないことを知らしめよう。」
1949年12月30日、ソビエト側が予定した通りに6日間の審理は終了し、ハバロフスク軍事裁判の幕は閉じた。
モスクワから北東へ300km。イワノボ州チェルンツィ村。
ハバロフスク軍事裁判で、被告席に座った12人の日本人は、この村にあった第48ラーゲリに移送された。ドイツ軍将校も収容された将官用の収容所であった。
12人それぞれの判決が言い渡され、刑が確定したのである。
山田乙三 強制労働 25年。
元関東軍軍医部長、獣医部長は25年

元731部隊幹部は12年~25年。衛生兵などは2年~3年の判決であった。
三友一男被告には、強制労働15年が言い渡された。
12人の被告のうち2人は服役を終えて、帰国、1人は病死した。
1956年日ソ共同宣言に伴って、残り9人の帰国が決定した。
しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
「彼は恩赦になると知っていました。日本に帰れたのです。ところがそのことを知っていながら、ある夜、彼は自殺することに決めた。これが、私の知っている全てです。日本に戻ることができない訳が何かあったのだろう。私達は、そう噂しあいました。」
村はずれの墓地。ここには収容所で死んでいった人が葬られている。この墓地の一画に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている・
「このことは、いずれ誰かが語らなければならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は、医者としての良心をかけて、すべてを話そう。」

裁判直後の1950年2月1日。裁判結果をまとめたソビエトは、アメリカのアチソン国務長官に文書を渡した。
ソビエトはその文書で「日本の細菌戦部隊の行為は天皇を頂点とする日本軍部の組織的な犯罪であることを指摘し、改めて国際軍事裁判を開くことを要求している。そして、直接人体実験を行った科学者である石井たち731部隊幹部を新たに訴追し、これを裁くことを求めた。
アメリカはこの時までハバロフスク軍事裁判に表面上は無関心を装っていた。
しかし、その裏で裁判の情報を盛んに集め、分析を進めていた。
ソビエトのアピールを受け取った2日後アメリカ国務省は記者会見を開き声明を発表した。
「今回のハバロフスク軍事裁判は37万人の日本人抑留者の問題から目をそらすためのソビエトのカムフラージュに過ぎない。」

731部隊の行為を国際軍事法廷で改めて裁くことを求めたソビエトのアピールは無視された。
アメリカは、このときすでに人体実験の詳細なデータを入手していたのである。

731部隊の人体実験の事実を世界に初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
この裁判には、戦後世界の主導権を握りつつあったアメリカを牽制するという政治的意味合いも込められていた。 
しかし、その政治性ゆえに、ハバロフスク軍事裁判は黙殺され、幻の裁判として忘れ去られていく運命をたどったのである。

こうして米ソ対立のはざまで日本の細菌戦部隊が行った人体実験の罪は闇に葬り去られた。

当事者である日本はその責任を自ら問うことなく半世紀が過ぎようとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より



しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長(細菌培養課課長)、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
「彼は恩赦になると知っていました。日本に帰れたのです。ところがそのことを知っていながら、ある夜、彼は自殺することに決めた。これが、私の知っている全てです。日本に戻ることができない訳が何かあったのだろう。私達は、そう噂しあいました。」
村はずれの墓地。ここには収容所で死んでいった人が葬られている。この墓地の一画に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている・
「このことは、いずれ誰かが語らなければならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は、医者としての良心をかけて、すべてを話そう。」)




天皇はもちろん731部隊の人体実験を知っていただろう!!
(3:30あたりから)


UNIT3
・・・・
日本の防衛庁資料室で見つかった記録によると、731部隊は天皇の裁可によって設立されたということが明らかになりました。
この書類には天皇の印章が押されてあったのです。また、天皇の弟の三笠宮は平房を訪れていたことがわかりました。
部隊のカメラマンだった山下氏です。
「当時の貴族はみな軍人になっていました。ときどき、我々の部隊にもそういう方々がやって来ました。私は三笠宮のご訪問を特によく覚えています。私が彼の写真を撮ったのですが、太陽がメガネに反射して目がよくわからなくなってしまったのです。石井隊長は関東軍の科学のメッカたる我が部隊の写真班としては科学的にこれを修正する方法があるはずだと言って、すぐに修正するように迫りました。そんなことがあったので、私は三笠宮の来訪をはっきりと覚えています。」
それどころか、天皇自身も平房での研究が最盛期であった1939年に満州に少なくとも1度は行っています。しかし天皇は人体実験について知っていたのでしょうか。
「日本の制度として主要な研究の報告書は、組織内のすべての人に回覧されることになっており、その流れが途中で止まることは考えられません。私の考えでは、あのように重要な情報が天皇に届いていなかったと考えるのは馬鹿げていると思います。」・・・・・

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