2014年11月23日日曜日

南京大虐殺


●南京大虐殺

1、南京大虐殺とは
・日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対して行なった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦の戦区であり、南京陥落後のおける日本軍の占領地域でもあった。
・期間は、1937年12月4日前後から1938年㋂28日の中華民国維新政府の成立時と考えることができる。
2、南京城区と近郊6県


3、南京国際安全区


4、南京大虐殺までの経緯
7月7日 盧溝橋事件
不拡大派(石原莞爾)と拡大派(武藤章)の対立・・・参謀本部は内地3個師団の華北派兵と支那駐屯軍の武力行使を指示。
7月27日 日本軍は第29軍に対し、北京・天津を明け渡せと最後通牒を発し、29日には北京・天津及び要地を占領。
7月29日 通州事件
8月13日 第2次上海事変(海軍陸戦隊と中国軍の戦端が開かれる。)
8月15日 第3師団と第11師団よりなる上海派遣軍の「編組」と上海への派兵。(上海派遣軍司令官:松井石根)
8月15日の渡洋爆撃にはじまって、12月13日の中支那方面軍の南京占領に至るまで、海軍航空隊の南京空襲は50数回に及び、参加延機数は900余機、投下爆弾は数百トンに及んだ。
8月29日 南京駐在の欧米5ヵ国の外交代表、南京空襲に抗議し、爆撃停止を求める抗議書を日本に提出。

5、1936年の帝国国防方針
「帝国国防方針」に「南進論」を併記させた海軍は、「国策の基準」に米海軍に対抗できる海軍軍備の拡充を定めさせ、その中で、対米戦に備えた航空戦力の開発・拡充が急務であることを強調した。「南進論」の戦略思想は、“中国の「宝庫」をめぐる日米の角逐は、やがて太平洋を舞台とする日米両海軍の一大争覇戦を導かずにはおかない。そのため、対米戦を目標に軍備を強化して南進態勢を固めることが必要であり、その第一段階として中国全土、特に米英の権益と勢力が集中する華中・華南において日本海軍の制空権、制海権を確立することが急務とされる”というものだった。

6、なぜ海軍航空隊が8月15日に渡洋爆撃を強行したか?
山本五十六の構想に基づいて対米航空戦のために開発した96式陸上攻撃機を早く実戦に使用して、その性能をテストしてみたかったこと。




・対米戦の主要戦略として計画された“地上基地発進の新航空兵力の先制奇襲攻撃によって戦場の制空権を確保する”という航空用兵の研究を中国空軍を相手に実戦演習をしてみたかったこと。

・航空の実績を上げることによって、国家予算において航空戦力拡充のための軍事費の大増額させる口実にする。

7、日本を世界に孤立させた海軍
日本海軍航空隊による都市無差別爆撃は、南京、上海、漢口、杭州、南昌、広州、厦門などの諸都市に及び、10月中旬までに華中・華南の大中小都市60ヵ所以上が爆撃の被害を受けた。

無防備都市の爆撃に対する世界の非難が高まる中で、イギリスは国際連盟に日本の軍事行動を非難する決議案を提出し、9月28日の連盟総会で、全会一致で決議案を採択した。(日本は33年に連盟脱退)

8、松井石根の任務
「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」に限定されていた。
ところが、松井はこの命令を墨守するつもりは最初からなかった。8月19日に東京駅を出発する時にも、見送りに来た杉山元陸相に対して、「どうしても南京まで進撃しなければならない」と力説した。

9、近衛首相と「支那膺懲」
近衛首相は、陸軍中央と政府、そして天皇も不拡大方針で戦局の早期解決を模索して段階であったにもかかわらず、何度かの政府声明において、戦争拡大に導いていく決定的な役割を果たした。
1、7月11日 「重大決意声明」・・・華北に派兵する。
2、8月15日 「南京政府断固膺懲声明」
3、9月5日 「施政方針演説」・・・挙国一致の国民精神総動員を呼びかけた。

10、中支那方面軍に出向した武藤章
膠着した戦局の打開を苦慮した武藤章作戦課長は、杭州湾に一軍を上陸させて、背後から中国軍を攻撃する作戦を考案し、下村第一部長の内諾を得て北支那方面軍に飛び、華北から上海への兵力抽出を説得した。その結果、杭州湾上陸の為の第10軍が編成された。合わせて第16師団が華北から転用し、上海派遣軍に加わった。
11月5日、第10軍が杭州湾に上陸、背後を衝かれた上海防衛の中国軍に動揺が走り、11月13日に第16師団が長江岸の白茆江に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、やがて総崩れとなり、上海攻略戦は一段落をつけた。

11、南京攻略戦の参加部隊



12、南京攻略に反対した参謀本部
11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。上海派遣軍の本来の作戦目的だった。
陸軍中央にとっては、上海派遣軍の士気の低下、軍紀の弛緩、不法行為の激発が深刻な問題になっていた。
11月15日、第10軍は軍主力をもって独断南京追撃を敢行することを決定。20日、参謀本部に第10軍から、「集団は19日朝、全力をもって南京に向かってする追撃を命令」という報告が届く。
11月24日、中支那方面軍から「南京を攻略するを要す」という意見書が参謀本部に届く。
11月20日、大本営が設置される。
11月24日、第1回大本営御前会議が開かれる。

13、武藤参謀副長の挑発
大本営の南京攻略の正式命令もないまま、参謀本部の統制に反する形で、中支那方面軍司令部が独断専行で発動した南京侵攻作戦は、もしも方面軍の進撃が停滞した場合は、南京攻略に反対である多田参謀次長らに前進停止を命ぜられる可能性があった。それを回避し、かつ独断専行を軍中央に追認させるためには、南京急進撃を成功させ、方面軍の南京攻撃の態勢が可能であったことを戦果で誇示する必要があった。
第10軍と上海派遣軍を挑発して「南京一番乗り」を争わせる。

14、南京攻略戦の経過要図(D=師団)


15、1937(昭和12)年12月
2日 蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府斡旋を断る)
4日 第16師団、南京戦区に突入
6日 日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領
7日 蒋介石、南京脱出。中支那方面軍、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」など下達。中国軍、「清野作戦」を展開(~9日)
10日 日本軍、総攻撃を開始
11日 日本国内で、誤報にもとづく戦勝祝賀行事行われる。(~12日)
12日 日本海軍機、アメリカ砲艦パネー号撃沈。南京防衛軍司令長官、撤退命令を出す。深夜南京陥落。
13日 日本軍、「残敵掃蕩」を開始
14日 昭和天皇、南京占領を喜ぶ「御言葉」
17日 南京入城式
22日 中支那方面軍司令官松井石根、南京を去り上海に向かう
24日 日本軍による「査問工作」(敗残兵狩り)が始まる(~38年1月5日)

16、パネー号撃沈事件
陸海の将兵はともに南京で蛮行を行った。陸軍は中国避難民の船舶やイギリスの砲艦レディ・バード号、ビー号を砲撃した。同時に、2機の海軍航空機が南京から約40キロ上流の揚子江に停泊中のアメリカ砲艦パネー号を故意に爆撃した。同艦には外交官や欧米のジャーナリスト、カメラマンが乗船していた。パネー号の乗員、乗客が燃え盛る船を見捨てると、さらに追い討ちをかけるように、モーターボートに乗った日本兵がこれに接舷し、岸に向かっていた最後の1隻の救命ボートを射撃した。のちに3名のアメリカ人が死亡し、他の3名が重傷を負ったこの事件は、ちょうどイギリス・アメリカで南京大虐殺の衝撃的なニュースが報道され始めた頃に欧米に伝わった。この2つの事件は、アメリカの世論に日本の軍隊が攻撃的で、残虐で、極めて無謀であることを印象付け、2強国の戦闘艦艇を攻撃した事は、日本の中国での行動の中で最も批判された。これらの事件は、また、アメリカの安全保障の直接的脅威になるという新たな対日イメージを形成した。
近衛と帝国海軍は、直ちに謝罪し、彼らが言うところの「誤爆」によるパネー号沈没の補償に220万ドル以上を支払った。昭和天皇は、ルーズベルト大統領や国王ジョージ6世に電信で遺憾の意を表明する事も出来たが、個人としてはまたもダメージを回復するような行動を取ることはなかった。明らかに、天皇も、近衛内閣も日本がまさに行った軍事的、外交的な大失策の広がりを正確に把握しようとしなかった。

中国でも、アメリカでも大虐殺とパネー号事件は、忘れられる事もなく、許される事もなかった。南京での「蛮行」のニュースは広く知れ渡り、多くの中国人にとって象徴的な事件となった。その後長期にわたり、この事件のプリズムを通じて中国人は日本との全面戦争を思い浮かべるようになった。不景気に苦しむアメリカで、大虐殺とパネー号沈没の報道記事は珍しく一面で伝えられ、人々の注意を引いた。

Norman Alley's Bombing of USS Panay Special Issue 1937 Newsreel




17、南京市要図


18、南京の人口
1937年11月23日の南京市政府の書簡には「現在の人口は約50余万である」
南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される。それに、中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢15万人をカウントしておくべきである。(最大で65万人)

19、山田支隊捕虜約2万名の行方
“自衛発砲説”は、敗戦後、福島民友新聞紙上に長期連載された「郷土部隊戦記」に初めて登場する。
内容は、山田支隊が南京陥落後の12月15日、南京で捕獲した約1万5千人の捕虜を収容所に入れるとき、約半数いた非戦闘員を解放した。しかし、残った捕虜8千人がその夜9時過ぎ収容所内で火事を起こした為、銃撃して逃亡を防いだが、混乱に乗じて約半数が逃亡した。さらに17日、残った捕虜を対岸に開放するため長江岸に連行し、渡河を開始したところ、対岸からの発砲を契機に捕虜が暴動を起こしたので止む無く銃殺した。このときの死者は1000名程度だった。
この“自衛発砲説”は一次資料で裏付けられたものではなく、敗戦後に両角業作連隊長がまとめたという「両角業作手記」が元になっていた。
だが、同書は一方では軍から「皆殺セ」の命令が出ていたという重要な事実も明らかにしている。
調査の結果から“自衛発砲説”は作り話であることがわかった。
最初に“自衛発砲説”を主張した記者も、『南京の氷雨』の著書の中で“自衛発砲説”を並列させながらも一兵士の陣中日記を公表し、自ら「どうやら全員が殺害されてしまったらしい」と語って、自分で書いた“自衛発砲説”を全面否定した。

20、産経新聞が日テレの「南京虐殺」検証番組を「裏付けなしの謀略宣伝」と攻撃! でも捏造と謀略は産経の方だった。
記事を読んで、ようやく番組のプロローグとエンディングで流された写真であることがわかったのだが、頭の中の「?」はさらに増すばかりだ。
写真はたしかに大勢の人間が防寒着姿で倒れている様子を写したものだが、番組はこれを「虐殺の証拠写真」として出したわけではなく、検証の材料のひとつとして紹介しただけ。しかも、番組はこの写真が日記の記述とは違う場所であることを明示している。つまり、信用性について判断を留保しているのだ。
ところが、産経は、この写真が「昭和63年12月12日、毎日新聞(夕刊、大阪版)がすでに掲載していた」と鬼の首をとったようにあげつらい、毎日新聞の記事が「被写体が中国側の記録に残されているような同士打ちや溺死、戦死した中国兵である可能性には一切触れず、『大虐殺』の写真と報道した」と糾弾するのだ。
いったい産経は何を言っているのだろう。番組の写真は、毎日新聞に掲載されたものとは別ルートで入手したもののようだが、仮に毎日の写真と同じだったとしてなんの問題があるのか。
「大虐殺の写真」と報道したのは毎日新聞であって、日本テレビの『南京事件 兵士たちの遺言』ではない。実際、同番組はこの写真について、ひと言も「虐殺写真」などと紹介していない。それどころか、写っているのが「中国人」とも言っていないし、「死体」とすら断定していない。「防寒着姿で倒れた多くの人々」と、一切の主観や解釈、評価は排除し、見えるままをナレーションしているだけだ。

21、南京安全区国際委員会
ジョン・ラーベ ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区国際委員会委員長、帰国後、南京事件をヒトラーに報告。対中・対日政策の変更を願ったが、逆にゲシュタポに逮捕される。
ジョン・マギー アメリカ聖公会宣教師、南京国際赤十字委員会委員長。日本軍の蛮行を厳しく批判するとともに、良心的な行動をとった日本人将兵についてもきちんと記録している。マギーフィルム
アーネスト・フォスター 宣教師 カメラが趣味で、多くの記録写真を残している。
ルイス・スマイス 金陵大学社会学教授。社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。
ジョージ・フィッチ 宣教師
マイナー・ベイツ 金陵大学歴史学教授。委員会の中心メンバーとして、財政実務や日本大使館への抗議交渉を担当した。
ロバート・ウィルソン 金陵大学附属病院(鼓楼病院)医師。南京占領時、唯一の外科医として医療活動に従事
ミニー・ヴォートリン 金陵女子文理学院教授、宣教師。強姦・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた。1940年アメリカに帰国し、翌年自殺。

22、東京裁判
1、東条英機 真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪
2、土肥原賢二 謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者
3、広田弘毅 南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。
4、板垣征四郎 米・英・蘭に対する太平洋戦争の遂行を、他に中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われた。
5、木村兵太郎 第3次近衛内閣・東条内閣で東条陸軍大臣の下で次官を務めていたこと(東条英機の権力掌握時に木村と軍務局長武藤章が陸軍中枢の権力を握っていた)
6、松井石根 司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠った。
7、武藤章 捕虜虐待の罪。死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。


23、南京軍事法廷
谷寿夫 - 当時陸軍中将。第10軍隷下第6師団長。1947年3月10日、BC級戦犯として死刑判決を受け、4月26日、同地で銃殺刑、享年64。

田中軍吉- 当時陸軍大尉。第6師団中隊長。300人斬りの容疑で起訴、山中峯太郎編著『皇兵』(昭和15年)のなかの「三百人も斬った隊長の愛刀助広」として説明されたことや中国人の処刑写真などが証拠とされ、死刑判決。反証提出は許されなかった。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年42。

向井敏明 - 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊[1]。百人斬り競争の容疑で起訴、1947年12月18日、第一回公判、当日死刑判決。東京日日新聞昭和12年12月13日の記事、それを転載したハロルド・J・ティンパーリの書籍が証拠とされた。反証提出は許されなかった。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年36。

野田毅- 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊。百人斬り競争の容疑で向井敏明と共に死刑判決を受けて1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年35。


24、虐殺数1
スマイス調査

南京安全区国際委員会秘書で金陵大学社会学部教授のルイス・S・C・スマイスは、南京占領後の1938年3月から4月にかけて、南京市部と農村部の戦争被害調査を実施し、南京城区の一般市民の不法殺害は2400人、男性で日本軍に拉致されて殺された市民が4200人と算出した。城内と城壁周辺の埋葬資料調査からの推測で市部でおそらく12000人の民間人が殺害されたと予測。近郊区の農村地域における被害者数は26870人と算出した。


25、虐殺数2
日中歴史共同研究

第1次安倍内閣のときに発足が決まった日中歴史共同研究( 波多野・ 庄司)では、これまでの代表的研究者(秦、笠原、板倉など)の研究成果から、極東国際軍事裁判判決における犠牲者数20万人を上限として(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、4万人、2万人など様々な推計と被害者数をまとめている。犠牲者数に諸説がある背景として、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在していると指摘した。


26、虐殺数3
三十万人以上

主に中国側論者の見解であるが、これらの数字には、いずれも資料的根拠が乏しく、日本側では1968年に家永三郎が「数十万」としたものの[17]、現在は日本側の学者からは支持されていない。ただし、加藤陽子は山川出版社の高校教科書で「犠牲者数については、数万人〜40万人に及ぶ説がある」と書いている。

1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷で30 万人以上とされ、中国の見解はこの判決に依拠している[15]。代表的な論者は、孫宅巍(江蘇省社会科学院研究員)、高興祖(南京大学教授)、アイリス・チャン(ジャーナリスト)などがおり、中国共産党政府、南京大虐殺紀念館、また中華民国の国軍歴史文物館も同様の見解をもっている。『蒋介石秘録』には30万〜40万と記された。

また、孫宅巍によれば、30万説には南京城外の六県その他の地域の犠牲者数を入れていないので、今後これらも考慮して研究すると述べた。


27、虐殺数4
十数万人以上

笠原十九司は、中国兵の犠牲者8万人と、一般人犠牲者(南京城市:1万2千人、南京周辺農村部:2万7千人)を合計し、10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上と推定している(ただし、他の説と異なり南京周辺農村部の犠牲者を含んでいる)。

笠原は、中国軍総数を約15万人と推計し(一方、中国軍側集計11万人)、約5万人が国民政府軍に帰還、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍による殺害としている。民間人の犠牲者数の推定は極めて困難としつつも、「ジョン・ラーベ『ヒトラーへの上申書』中国側推定10万人、残留外国人推定5-6万人。」、「埋葬団体の埋葬記録 埋葬総数18万8674体(虐殺に当たらない死体、埋め直しによる重複がある一方、長江に流された多数の遺体があると指摘)。」、「スマイス調査市部(城区)殺害3250人、拉致後殺害された可能性が高い者4200人、農村部(近郊4県半)被殺害者数2万6870人。」をもとに推計している。

この説に近い研究者として南京事件調査研究会のメンバーである洞富雄 (元早稲田大学教授)、藤原彰(一橋大学名誉教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士(駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、高崎隆治(戦争研究家)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)などが挙げられる。
28、虐殺数5
4万人上限説

秦郁彦は、中国兵の犠牲者3万人、一般人の虐殺犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした。

秦は台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長の飯沼守少将日記を採用して、南京守備軍の兵力を十万、うち五万が戦死、四万が捕虜になり、三万が捕虜になったあと殺害された(生存捕虜は一万)と推定し、上海派遣軍郵便長の佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」にほぼ符合するとしている。


29、虐殺数6
数千〜2万

偕行社編『南京戦史』では「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。編集委員は畝本正己、原剛(防衛研究所調査員)、板倉由明など。

『偕行』編集部は、事実を明かにするという立場で、否定だけでなく肯定の証言をあえて掲載するという立場を取った。そして連載の最後に、編集部の責任(加登川幸太郎執筆)で、「その総括的観察」という文章を載せた。そこでは、遺憾ながら日本軍はシロではなくクロであった、不法殺害の犠牲者は3000から1万3000という説があるけれど、たとえ3000でも途方もない数である、として「旧日本軍につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と謝罪した。『偕行』編集部がこのような態度をとったことで、全面否定論は完全に崩壊したのである。


30、虐殺数7
「虐殺」否定説

虐殺否定派は、日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さに疑問あり、などととして、30万人の市民の虐殺はなかったと主張している。主な主張者は、新しい歴史教科書をつくる会・日本「南京」学会・南京事件の真実を検証する会のほか、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、中川八洋(筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。


31、百人斬り競争
鵜野晋太郎証言 本来の日本刀はそんなにヤワものではない。・・・・使い方を変えれば極めて効果的なものであることは、私の残虐行為から見ても断言できる。要するに日本刀とは、全く無抵抗の人に対してならばこれほど軽便な殺人用具はないと言い切れる虐殺用具なのである。(旧陸軍情報将校)
据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だった。


32、裁判
1、東史郎名誉棄損裁判 最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館は最高裁判所に対し、「歴史の事実と公正な道理と正義を無視し、 公然と侵略と加害者の立場を頑固に堅持する日本の旧軍人を庇護し続けた、 白を黒と言いくるめる、物事の是非を混同する恥を知らないこの判決」であり、「世界司法史上、 永遠に拭い去ることのないぶざまな一頁として記憶されるだろう」として「最大の憤怒と強烈な譴責」を表明した。

2、李秀英名誉毀損裁判 地裁・高裁・最高裁はすべて李秀英さんに対する名誉毀損の事実を認定した。

3、南京百人斬り訴訟 訴えられたのは本多記者のほかに朝日新聞、毎日新聞など  この事件で裁判所は、両少尉の遺族の請求をすべて棄却しただけでなく、東京高裁は「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」と認定し、中国人に対する殺人競争を二人の少尉が行っていた事実を認定するに至った。

4、夏淑琴名誉棄損裁判 南京大虐殺のときに両親や祖父母など家族を日本兵によって虐殺され、妹と二人だけ生き残った幸存者、夏淑琴さんに対する名誉毀損訴訟である。これは、亜細亜大学の東中野修道教授が夏淑琴さんをニセ証言者であるかのような記述をしたことが争われた事件だった。
このときも東中野教授の論述内容があまりに低レベルだったため、東京地裁の判決では「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とまで断罪されたほどであった。
この事件においても、地裁・高裁・最高裁はすべて夏淑琴さんに対する名誉毀損を認定した。

33、慰安婦問題
南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)


34、天皇の責任
皇族はみな、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺がもっとも激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、陸軍航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤少将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、略奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)これが皇軍か」と嘆じている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(ちゅうさつ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」(ようちょう)に正当性を与えた個人―として天皇は、公ではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。
(ハーバード・ビックス著『昭和天皇 上』講談社学術文庫)

35、親泊朝省
1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月3日) 41歳没
日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。
1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で日本が無条件降伏文書に調印をした翌日、妻と子二人とともに拳銃自決をした。 『草莽の文』と題した遺書を陸軍内部に配布し、軍の反省と日本の将来を憂いた。

ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます。
皇国の前途をよろしく頼む

作家澤地久枝の『自決こころの法廷』では未発表の関係書簡が紹介されている。 それは朝省の妻・英子の兄であり、朝省の親友でもある菅波三郎の書簡で、その中で朝省最後の言葉として次のように記されている。

「終戦の間際 天皇、皇太后ら全く意気地なし。
みずから戦を宣しておきながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。」

南京大虐殺を告発して「自決」した軍人
日高氏によれば、親泊の弟と日高氏の兄が親友だった関係で遺書を入手し、資料集に紹介したという。遺書の内容は「皇国の天壌無窮を絶対に信ずる」という典型的な皇国史観に彩られており、「大東亜戦争は道義的には勝利を占めたが、残念乍ら国体の護持は困難になった」といった精神主義色が濃厚な代物だが、日本軍の行為に対する反省の弁を述べている点に特徴がある。以下、その反省の部分を引用する。そこで南京大虐殺にも言及している(太字は引用者による)。
(前略)
明治維新なって建軍の本義漸く明らかになり、国運之に伴って隆々とし来り、国軍の威容重きをなすに従って、我等軍に従うものまた自ら反省すべきものがあったのではなかろうか。
軍の横暴、軍の専上と世に専ら叫ばれることに就て、私は自ら反省して自らはずべきこと少なからざるものあるを悟るのである。
例えば、満州事変、支那事変の発端の如き、現地軍の一部隊、一幕僚の独断により大命をないがしろにした様な印象を与え、満州事変以来みだりに政治に干与して事更に軍横暴の非難を買うが如き態度を示したが如きはそれである。
また外征軍、特に支那に於て昭和十二、十三年頃の暴状は遺憾乍ら世界各国環視の下に日本軍の不信を示したといえる。即ち無辜の民衆に対する殺戮、同民族支那人に対する蔑視感、強姦、掠奪等の結果は、畏れ多き事ながら或る高貴な方をして皇軍をして蝗軍と呼ばしめ奉るに至ったのである。
斯くて皇軍の権威は地を払い、我が陸軍は海軍とも相克対立を示すに至っては、官は軍を離れ、民も亦漸く軍を離れる次第となったのである。(後略)

36、三笠宮1
1915年生まれの崇仁親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書き、日本の侵略主義を批判したのだが、その文書が発見された1994年には、月刊誌のインタビューで“南京大虐殺はなかった”という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)


37、三笠宮2
1956年の著書『帝王と墓と民衆』(光文社)に付した「わが思い出の記」のなかでも、南京に配属された当時を振り返り、こう記している。

〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉

〈わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである〉

38、家永教科書裁判
1993年10月20日の第3次訴訟についての東京高裁の判決は、南京大虐殺の存在と、その際における強姦の多出を認め、その削除を要求した検定を違法とした。97年8月29日の最高裁判決も、この高裁判決を支持し、南京大虐殺と強姦を最終的に認めたのである。この家永裁判の結果を反映して、教科書の記述にも南京大虐殺の事実が載るようになっており、この限りでは否定論は敗北していると言えるようになっている。


39、外務省のホームページ
歴史問題Q&A
問6 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。

こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。

問6 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

40、否定論の再登場
日本の戦争は侵略ではなくアジア解放の聖戦だったとか、南京大虐殺はデッチ上げだとか、従軍慰安婦は公娼だったなどという主張は、事実としてはとうに結着のついていることを蒸し返しているだけで、学問的な論争とはとても言えないものである。しかしウソでもデマでも、度々繰り返していればある程度の効果はある。まして大手の出版社から大宣伝で発行される雑誌や本を舞台にして展開されている戦争賛美論を放置してい置くわけにはいかない。この新しい修正主義の仮面をかぶった戦争美化論の本質を見極め、デマゴギーに騙されないようにしよう。


●三笠宮が百歳祝いで思い出す「紀元節反対」と「南京虐殺言及」
昭和天皇の弟・三笠宮さま 100歳の誕生日

「聖戦という大義名分が、事実とおよそかけ離れたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるをえなかったのではないか」!!
「紀元節に科学的根拠なし」!!

「満州の広野で行われた毒ガスの生体実験」
「虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません」
「昭和天皇にもお見せしたことがあります。・・・多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています」


●三笠宮の発言を額面通りには受取れない!!
・「架空な歴史」と「勝算なき戦争」(週刊新潮:2015年12月3日号より)
三笠宮さまは1943年1月から1年間、お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任され、戦後は東大でオリエント史を学ばれた。56年には『帝王と墓と民衆』(光文社)を上梓。ご自身の戦時中の感慨について、同書に付された『わが思い出の記』の中で、〈私の信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚き果てたのである。罪もない中国の人民に対して犯した忌まわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将校の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とは思いもつかない結果を招いてしまった〉
この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省を促し、新たに対華新政策なるものが決定され、私が南京に在住していた1年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした。と現地で見聞した日本軍の行状をひたすら嘆かれ〈新政策が発表されるや、軍司令官は直ちに「四悪」を禁止するという厳重な命令を下した。四悪というのは、略奪、暴行、放火、強姦のことである。(中略)ある第1戦の大隊長の言うことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼き払って進んだので、自分の大隊の第1戦がどの辺を前進しているかすぐ分かった。ところが今度放火を禁じられてみると、第1戦がどこにいるかさっぱり分からない、と、まったく笑えないナンセンスであった。〉〈聖戦という大義名分が、事実とおよそかけ離れたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか。〉
当時から聖戦への信念を完全に失っていたと明かされているのだ。
同じ頃、世間では48年にGHQの意向で廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まっていた。そんな中57年11月13日付「毎日新聞」は、ある歴史学者の祝いの席でなされた三笠宮さまの発言を報じている。〈「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、カンジンの歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか。紀元節問題は歴史科学に影響するところが大きいと思う。(中略)このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか。(中略)この問題は純粋科学に属することであり、右翼・左翼のイデオロギーとは別である。」〉
学者の立場から「紀元節に科学的根拠なし」との論陣を張った三笠宮さまは、その後も、〈紀元節についての私の信念〉(『文芸春秋』59年1月号)と題した論文を発表。〈日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である。そう強調され、以下のように結んでおられたのだ。
〈昭和15年に紀元2600年の盛大な祝典を行った。
1940年(昭和15年)11月 日本ニュース第23号

(この当時は、天皇は現人神であり、絶対的な存在として教科書にも記述されていた。今また、「日の丸」「君が代」の強制によって、天皇は神になっている?現代人の皇室信仰はどうなのだろうか!!)


日本は、翌年には無謀な太平洋戦争へ突入した。すなわち架空な歴史―それは華やかではあるが―を信じた人たちは、また勝算なき戦争―大義名分はりっぱであったが―を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の1人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている〉
こうしたお考えの集大成とも言えるのが、84年に刊行された自叙伝『古代オリエント史と私』(学生社)である。そこでは、今もなお良心の呵責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。と前置きしつつ、南京での実態をさらに詳述され、〈ある青年将校―私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが、成功しなかった、と語っていました。
「聖戦」のかげに、実はこんなことがあったのでした。
南京から帰任する直前の44年1月、三笠宮さまは“若杉参謀”の名で将校らを前に講話をなさっている。軍紀の乱れや現地軍の独走を厳しく指弾する内容は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられ、94年には半世紀ぶりに公表された。当時、月刊誌の取材でご自身は、いわゆる「南京大虐殺」についても、〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。(『THIS IS 読売』94年8月号)そう断じており、〈中国側は、日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡に戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にお見せしたことがあります。もちろん中国側が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています。〉老境に差し掛かってもなお、決して節を曲げることはなかったのである。


・昭和天皇をはじめ、皇族たちは、戦争を積極的に主導し、三笠宮は、陸軍登戸研究所や731部隊本部を訪れ、そこで行われている実態を知っていた。
・リットン調査団に、毒入りの果物を食べさせようとしたのも、731が関与したことを知っていたのではないか?
・516部隊や731部隊が満州で毒ガスの生体実験やその他の人体実験をやっていたのは当然知っていた。
・南京大虐殺は朝香宮が主導したことは知っていた。捕虜を国際法に基づいて扱わない軍の方針ももちろん知っていた。


●三笠宮は、登戸も731も南京虐殺も、8・15クーデターもすべてご存知だ。
登戸研究所本部前(ヒマラヤ杉)

天皇は知っていた!!

昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王は、南京事件に
【1945 8/15】鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日


●南京大虐殺
「慰安婦」ーー日本軍の性奴隷に関する檔案選:「慰安婦」1人に分担された兵士の数は178人

夏淑琴さん

フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」












●政府、国の組織は、いつも情報を隠蔽する!!この2本のビデオが明らかにその実態を物語る!!
被爆したのは第5福竜丸だけではない!!1000隻近くの船が被爆し、被害を蒙った!!
補償は、無い!!
開示された文書「何で黒塗り?」


「南京大虐殺」世界記憶遺産に登録について。- 2015.10.10


外交部:中国側は『南京大屠殺檔案』の貴重な文献の積極的な役割を十分に生かしていく

自民党の歴史認識はどうなってんの?
「南京事件」記憶遺産決定で自民が決議文

「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論―中国

安倍首相が否定したい南京大虐殺を日本テレビの番組が精緻な取材で「事実」と証明! ところが番組告知は…

恥ずかしすぎる! 安倍政権が世界遺産否定のために「南京大虐殺はなかった」のトンデモ言説を世界に発信

日本政府、「南京大虐殺」外交で大敗北 ユネスコ「世界記憶遺産に登録」発表

南京大虐殺文書が記憶遺産に登録 第2次大戦の「補習」が始まった


南京大虐殺(兵士の陣中日記を検証する!!)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺





司法の場においては事実認定はされている!!
家永教科書裁判

第二審〈平成元年(ネ)第3428号・平成2年(ネ)第2633号〉
判決(川上判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。

第三次訴訟
上告審〈平成6年(オ)第1119号〉
判決(大野正男裁判長)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を7件中4件認め、草莽隊による年貢半減の公約、南京大虐殺、中国戦線における日本軍の残虐行為、旧満州731部隊の記述に関する検定を違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。(原告の訴えの中で却下された検定は、「日清戦争時の朝鮮人民の反日抵抗」「南京戦での日本軍の中国人婦女暴行」「沖縄戦」である)

百人斬り競争
百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争(支那事変)初期、大日本帝国陸軍将校の野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったとされる行為である。
戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された[1]。今日、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。また、遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一の勝訴、原告敗訴が確定している。

なぜこの人は百人斬りを否定する?
朝日は「百人斬り」精査を 稲田朋美・自民政調会長

外務省ホームページ
問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
1、日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
2、しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
3、日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。


・夏淑琴(かしゅくきん)名誉回復実現裁判

夏淑琴名誉回復実現裁判の報告(2013年3月15日)

日本の民間団体が南京大虐殺記念館を視察、「全ての日本人に見に来てほしい」―中国メディア

旧正月に南京大虐殺記念館がブレイク、訪問客数が過去最高を記録―中国

昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根(君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?より)

・・・・
そして彼は、彼(松井司令官)の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。

帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する


朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。

(#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。

〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。

南京事件の波紋(『天皇の陰謀』下 バーガミニ著より)
南京での放埓きわまる行動が、現地の兵士たちから内地の人々に伝えられると、宣伝家たちがやかましく主張していた裕仁の「聖戦」を皮肉って、日本人たちはこれは「汚れた戦」だと言い始めた。
文部大臣を務めていた重臣の木戸は精力的に活動し、慎重に言葉を選んだ論説を大新聞に発表して、民衆に南京事件は不幸な偶発事件であることを納得させようと努めた。杉山陸相は、戦闘経験をしゃべりすぎた帰還兵に対し、機密保持に抵触したかどで重罪を課した。裕仁と閑院宮は対ソ戦想定計画に再び興味を示すことで、参謀本部を懐柔した。・・・

映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13



南京陥落(朝日世界ニュース号外&特報)






●畑俊六が記録する南京大虐殺
資料:軍人の発言に見る「南京事件」より

松井大将の後任として、昭和十三年二月十四日より「中支那派遣軍司令官」を勤めた、畑大将の記述です。

『陸軍大将 畑俊六日誌』より

昭和十三年二月十四日 中支那派遣軍司令官
一月二十九日

本日より二月六日まで第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察の為北海道、弘前地方に出張。

支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり 。

此意見を大臣に進言致しをきたるが、出張前大臣に面会、西尾、梅津両中将を南北軍司令官たらしむるを可とする意見を申述べ出張したる処、意外にも二月五日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、とにかく帰京の上とし六日朝上野に帰着したる処、 中島参本総務部長駅にて待合せ本部長の来信の如き意味を伝へ、次で大臣より面会したしとのことにその足にて官邸に至り大臣に面会したるに、大臣より上述の如き申出あり。

上海は方面軍と二軍司令部との折合兎角面白からず、此際現役者を以て交代せしむるを適当とすべく 、又海軍の長谷川中将には古荘より先任なれば大将を以てしたり。

小磯は大臣が推薦したる処外へ出すことは参謀本部側にて到底承諾せず、中村は病気なり。 又あまり細かすぎ適任ならず。結局余の外なければ行て貰ひたしとのことに考慮を約して辞去したり。
(みすず書房『続・現代史資料4 陸軍(畑俊六日誌)』 P120-P121)


さらに畑は、戦後にこのような回想を残しています。
『南京の虐殺は確かに行われたか』より

昭和十三年二月、私は松井石根大将のあとをうけて上海に到着した。私は直接には兵団と関係がなかつたので、各郷土の特質についてはあまりよく知らないが、上海に到着するまで、南京の虐殺ということは夢にも考えていなかつた。

南京に到着してみても、なんの痕跡もなかつたし、人の耳にも入つていない。ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山のように出された。

それがために松井石根大将はついに悲惨な最期をとげられた。

それも運命と思えばあきらめられないこともないが、いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。

けれども、これは戦場という特種の環境の下ではたらいた心理作用のなせる業で、平静にかえつたとき、これを責めるのも無理だと思つている。

もともとこの裁判の遠因が、いわゆる復讐のための裁判だつたのだからやむをえないことだろう。
(『丸』エキストラ版 Vol 15 P76)


南京から日本へのメッセージ、いや世界へのメッセージ!!

南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分

検証南京大虐殺

南京大虐殺の真相

南京大虐殺の真実

映像の世紀 南京大虐殺12 元日本兵の証言 金子安次

南京大虐殺

フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」


1941年6月5日、日本軍が重慶市に対する連続5時間余りに及ぶ大規模な爆撃を行い、較場口の防空トンネルにいた多くの市民が窒息死し、「六五大トンネル事件」となった。
「侵華日軍重慶大爆撃殉難同胞記念園」の設立、専門家が呼びかけ―中国メディア

改めて、昭和天皇と皇族方の戦争責任を問う!!
戦前・戦中と天皇は現人神であった。(今もそうかもしれない?)
誰が天皇に逆らえるのか?
天皇は、先頭に立って、戦争を指導した!!

【朝香宮・・・南京大虐殺時に上海派遣軍司令官。(南京裁判では皇族ゆえ裁かれなかった。)
※南京大虐殺当時、南京にいて中国人を救ったドイツ人「ラーベの日記」は膨大なもので、全訳されているのは中国語だけだ。
日本で出版されている「ラーベの日記」(講談社)は絶版になっており、古本屋でしか手に入れることができないという。
何で、絶版?圧力がかかっているのか?
先日のNHKテレビの「くらし解説」で戦争中ユダヤ人を救った外交官杉原千畝のことを紹介していたが、NHKは南京で日本軍から中国人を救った「南京のシンドラー」ラーベのことも紹介せよ!!
参考)
日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ



竹田宮・・・731部隊との関わりを持っていた。
三笠宮・・・陸軍登戸研究所や731部隊を視察していた。・・・・】

●南京大虐殺!!
名古屋から世界へ向けてのメッセージ!!




戦前・戦中、国家神道は日本の精神的支柱となり、国民は教育で洗脳され続けた!!
そこでは、天皇は絶対的な存在だった!!神であった!!
戦後、一旦は「国家神道」は占領軍によって廃止されたが、天皇制が存続したため、その「国家神道」の思想は今でも多くの国民に影響を及ぼしている!!
それも国歌・国旗が正式に制定されてからは、一段と強くなった!!「思想・信条の自由」は侵害されている!!
式年遷宮、年始の参拝等には、多くの政治家、国民が伊勢神宮を参拝し、天皇を崇拝している人が多い。
今のほとんどの政治家、企業家、学者等多くは今も「天皇は神である!!」ことを固く信じ込んでいる!!
神は悪いことをしない!!いやしてはいけないのだ!!天皇制の存続も危ぶまれる!!
だから、天皇・軍部の犯した罪を、歴史の真実を「秘密保護法」を作って隠す!!
「南京大虐殺はなかった!!」「731部隊は存在したけれども、生体実験、細菌戦等は資料が無いのでわかりません!!」等々、しらばっくれている!!(ノブ)


新野和暢氏講演!!
あの傑僧、沢木興道もこんなことを書いていたのか!!
「杉本五郎中佐はこの煩悩という2字を朝敵と訳したが痛快である。時局がらこういう工夫も悪くない」と書いた。
〔確か、沢木興道は日露戦争へ従軍して、金鵄勲章をもらっている。〕(ノブ)
「禅と戦争責任」
澤木興道 






(参考)
『生きている兵隊』(石川達三著=中公文庫61ページ)より
いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮の事を思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持ちでさえもあった。従軍層はどこの部隊にもついているが、彼ほど勇敢に敵を殺す僧はどの部隊にも居なかった。
「片山さんも帰ったら一つ金鵄勲章をもらわんといかんな」と通訳が笑うほど彼の戦闘は勇敢であった。しかも彼は拳銃も剣も持たない、武器はいつも有りあわせのものであった。北支の戦場で彼が殺した人数は20人を下らなかった。
北支に居たころ、西沢部隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺(や)ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」
「生きているのは殺さなきゃなるまいが、戦死した兵は弔ってやってもいいだろうじゃないか」
「はあ、しかし、自分にはどうもそういう気持ちになれませんな。やっぱり戦友の仇だと思うと憎いですな」
・・・・・・・・
従軍僧自身にあっては、自分の寺で平和に勤行をやっているときにはこの宗教が国境を超越したものであることを信じていた。印度において支那において日本において、同じ宗教が同じように信仰されて来たことはそれを証明すると思っていた。簡単な信じ方であった。また従軍を志願して寺を出るときには支那軍の戦死者を弔ってやるつもりはあった。しかし戦場へ来て見るとそういう気にはなれなかった。
戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、同じ程度のことしか考えない、同じ要求しか持たないものにしてしまう不思議に強力な作用をもっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリジェンスを失ったように、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののようであった。ただ彼に残っている宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るというだけである。彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化していたのであった。
しかしそれは必ずしも片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が無力になったというよりも、国境が越え難く高いものになって来たのであった。

※石川がこの本を昭和13年に出すと、すぐに内務省は発売禁止を通告してきた。その後「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊すもの」との理由で、「新聞紙法違反」と罪に問われて起訴されてしまう。判決は2回の公判で早くも下され「禁錮4年、執行猶予3年」の刑であった。




日中戦争から帰還した兵士に、軍は「銃後ニ答フ」を配布し、戦争での残虐な場面を語ることを禁じた!!
続『隠された聯隊史』下里正樹著:青木書店より




12月17日、南京入城式
果たして、この裏で一体何があったんだ?
4 days after the Fall of Nanking (Dec. 17, 1937)  南京城入城式


しゃべってから死ぬ「南京大虐殺」


南京大虐殺の真相


The Nanking Massacre


南京大虐殺76周年、現地平和集会に5000人 日本の団体も「大罪忘れるな」―中国メディア



日本人の大虐殺に対する考え方とは―中国メディア

2013年12月13日、財訊は「南京大虐殺から76年、日本人の大虐殺に対する態度」と題する記事を掲載した。以下はその概要。

「南京大虐殺」から76年、日本政府は時にあいまいな返答をし、時にその存在を認めることを拒んできた。1937年に南京で大虐殺が発生した当時、圧倒的多数の日本人はその存在を知らず、1945年の東京裁判の時に初めて知る人がほとんどだった。事件が発生したとき、中国政府が発表した情報は、日本軍第6師団が23万人を殺害、16師団が14万人を殺害、その他の部隊が6万人を殺害し、合計で43万人の犠牲者が出たというものだった。南京大虐殺に関する審理の際、傍聴に訪れた日本人が2000人以上にのぼったことは、人々のこの事件に対する関心の高さを示している。

東京裁判の後、南京大虐殺は日本で次第に忘れ去られていったが、1970年代、日本社会は再び南京大虐殺を見直し始め、多くの日本人が南京大虐殺を認知した。朝日新聞の記者・本多勝一氏は日本軍の侵略戦争を調査するため中国にわたり、朝日新聞の紙面で10度にわたって南京を取り上げた。

また、早稲田大学の洞富雄教授を始めとする一部の人々が1984年に「南京事件調査研究会」を組織し、南京大虐殺を否定する思想に反対するために具体的な調査を開始した。洞教授を代表とする人々は「大虐殺派」と呼ばれ、大虐殺を否定する人々は「幻想派」と呼ばれた。その後、議論に加わる人はますます増えていった。それぞれが主張する被害者の人数は異なり、一部はその存在自体を否定した。

1990年代、与党自民党の政治家でこの論争に加わる者は少なかった。初めて公の場で南京大虐殺を否定したのは、羽田孜内閣の永野茂門法務大臣だったが、永野氏はこのことが原因で、就任わずか11日で辞職に追い込まれた。この後、現職の大臣がこの種の発言をすることはなくなった。しかし、大臣を退いた後は違った。例をあげれば、運輸大臣、通産大臣、経産大臣などを歴任した平沼赳夫氏は、2008年からたびたび南京大虐殺を否定している。

日本社会の主流は、南京大虐殺の発生を認めるというもので、多くの小中学校で使用されている教科書には関係する記述があるが、被害者の数については相変わらず見解が分かれている。しかし、被害者の数がどうであれ、中国国民に巨大な損害を与えたことには変わりがないのである。(翻訳・編集/北田)



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