2008年12月15日月曜日

1937年 12月15日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

 南京攻略戦下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者は、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号が撃沈されたこと、及び日本軍占領下ではもはや記事の送信手段がないことから、12月15日、パナイ号生存者を乗せた米艦オアフ号が下関埠頭に寄ったさいに乗船して南京を離れ、上海へ向かった。このとき、ダーティン記者は、「敗残兵狩り」「便衣兵狩り」で集められ、連行された軍民の処刑場面を目撃した。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド(埠頭)で200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並べされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。
 この身の毛のよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。(「ニューヨーク・タイムス」37年12月18日、『アメリカ関係資料編』)

 長江沿岸
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 山田支隊の第5中隊長代理角田栄一少尉の回想。
 私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明りのなかにものすごい大軍の黒い影が・・・・・。私はすぐ“戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。(中略)
 ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて降参してしまったのです。すでに戦意を失っていたかれらだったのです。(「南京戦史」)

 山田支隊が捕獲した捕虜の数について、支隊長の山田栴二少将の日記はこう記している。
  (12月14日)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲        台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。
   捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14777名を得たり、     かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。
  (12月15日)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。
   各隊食糧なく困却す。(「南京戦史資料集Ⅱ」)

 上の莫大な捕虜の措置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、入城式を控えて、  敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上級から、捕虜の全員処刑を命ぜられたのである。
 山田支隊では、これらの膨大な捕虜や避難民を16日と17日とにわたって殺戮した。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月15日

 朝の10時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
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 昨日、12月14日、司令官と連絡が取れなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に次のような手紙を渡した。

 南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。本委員会は、この地区から中国軍を撤去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち12月13日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めて安全区に近づいてきたのです。
 我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。
 捕虜に対する標準的な法規に鑑み、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやく彼らを普通の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
                        敬具
                    ジョン・ラーベ、 代表

 この手紙と司令官にあてた12月14日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。

 議事録
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
1937年12月15日 昼

通訳・福田氏
出席者
ジョン・ラーベ氏・代表
スマイス博士・事務局長
シュペアリング氏・監査役

1、南京においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
2、安全区の入口には、日本軍の歩哨が立つ。
3、避難した住民は速やかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
4、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場にたって扱うつもりである。その件は我が軍に一任するよう希望する。・・・・・・
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 残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げ込んできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人で何とかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、しばられ、連行された。そして銃殺されるのだ。
 スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようと言ってくれたが、望みは薄い。・・・・・・・・

 人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍の方も  済南で日本人捕虜を2000人銃殺したという話だ。
 日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイ号が日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者2人。・・・・・・・・・・・・


 スミス氏(ロイター通信社)講演

12月13日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門あたりでは、夜、すさまじい戦闘が繰り広げられました。・・・・
 12月13日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも、兵士が食料を持って出てくる光景が見られました。しかし、中国軍が組織的に略奪行為をもくろんだというのは正しくありません。
 とくに印象的だったのは、中国人の衣料品店前の光景です。何百人もの兵士たちが店の前に押し寄せ、ありとあらゆる種類の服が、飛ぶように売れていきました。有り金はたいて服を手に入れ、その場で着替えると、兵士たちは軍服を投げ捨て、市民のなかにまぎれこんでいきました。・・・・・・
・・・日本軍のパトロール隊を見かけました。彼らは6人から12人くらいで一団となり、メインストリートをゆっくりと注意深く進んで行きました。時たま銃声が鳴り響き、あちこちに市民が倒れていました。
日本軍に言わせると、逃げようとして撃たれたというのです。ただ、日本軍の姿をみると、一般市民の間にはある種の安堵感がたっだよったように思えました。もし、人間らしい振る舞いをしてくれるなら、日本人を受け入れよう、という気持ちがあったのです。
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 12月14日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼ごろになると、6人から10人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました。彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪を繰り返しました。中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。

 私は12月15日に南京を後にしたのですが、それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪し尽くされていました。
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 12月15日、外国人の記者団が、南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。
出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこで我々の見たものは、広場で日本軍が中国人をしばりあげ、立たせている光景でした。順次、引き立てられ、銃殺されました。ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮を執っていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかはわかりません。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月15日(水曜日)

たしか、きょうは12月15日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるか覚えているのは容易ではない。
 昼食の時間を除いて朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性はおびえた表情をしていた。城内では昨夜恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。今朝ソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。それからというもの、女性や子供には制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的年齢の高い女性に対しては、できれば自宅にいるよう常々お願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと3000人以上の人がいると思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 昨日と今日、日本軍は広い範囲にわたって略奪を行い、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。武装解除された1000人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、多分、今頃はすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送る事ができない。相変わらず銃声が時折聞こえる。

[Imagine 9」解説【合同出版】より


基地をなくして

緑と海を取りもどしていく世界


 基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」

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