2009年1月24日土曜日

1938年 南京 1月24日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月24日
 高上校のボーイが突然やってきた。何も食べるものがないというので5ドルやった。主人の高上校漢口へ逃げてしまったという。
 委員会はキリスト教評議会を介してジーメンス洋行中国本社に打電し、3月1日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。・・・・・・・・

・・・・・・・・・その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。なんせ闇で二束三文で売られているのだから。今高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。


 今日また高玉が本部へやってきた。中国語のできる警察の高級将校が一緒だ。高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところをベイツに見つかってしまった。だから、収容所で「洗濯や料理をする人」を捜していたのだ、といいにきたという訳だ。「洗濯や料理をする人」だと?いったい誰がそんなたわごとを信じると思っているんだ。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。
 スマイスは一部始終しっかり書きとめた。「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。奴さん、当てが外れてすごすごと帰っていった。ただ、「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」と、いやに力を込めて付け加えるのだけは忘れなかった。本部にいた連中はみな、いい気味だと言って喜んだ。


 マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。それには、中国人女性を銃剣で脅していたところへ、委員会のメンバーが三人、ふいに姿を現したため、その日本兵はあわてて武器をとりおとし、そのまま逃げたとあった。目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。そこで、ローゼンは早速「不思議に国のアリソン」と命名した。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月24日   月曜日
 今朝非公式の報告書をタイプし始めてからほどなく、フォスター氏がどっさり情報を持って現れた。彼は、先週の土曜日の晩に大使館で起こった出来事を話してくれた。
 アリソン氏たちがジョージ・フィッチとP.ミルズを招いて夕食をとっていると、使用人の一人が、三号車庫に兵士が2人いると知らせてきた。アリソン氏が車庫に行ってみると、2人はマージャンをしていた。彼は2人に、出て行くように言った。あとで彼は、いささかきつく言いすぎたような気がして、果たして適切な処置だったろうかと考えながらテーブルに戻ってきた。アリソン氏が席に着くか着かないうちに、今度は別の使用人がやってきて、彼の娘が拉致されたことを知らせた。この一家は五号車庫で生活していた。アリソン氏は今しがた二人の兵士に、敷地内から出て行くように言ったばかりだったので、使用人がきっとその2人と取り違えているのだ、と言ったが、使用人は、それとは別の兵士で、初めのうちは彼の末の娘を要求したが、彼ら両親が断固拒否したのだ、と言った。そのあとアリソン氏は娘を捜しに飛び出して行き、当の娘が戻ってくるところに出くわした。どうやら、少女を連れ出した兵士に先の2人の兵士が出会い、アメリカ大使館にいた少女だから帰してやれ、と言ったらしい。私はどんな人も傷つけたいとは思わないが、それでもやはり、クアト・ヒューゼッケン卿射撃事件(1)、パナイ号爆撃事件、イタリア高官傷害事件、アメリカ高官傷害事件、アメリカ大使館からの少女拉致事件が発生したことを喜んでいる。少なくとも、このような事件があれば、日本や欧米諸国の国民の注目が集まるからだ。
 引き続き午後の集会は行われている。
 昼食のすぐ後アメリカ大使館に行き、車で日本大使館まで送ってもらった。福田氏との会話のなかで私は、大勢の女性が夫や息子を取り戻すために私に助力してほしいと懇願していることを訴えた。彼らの中には、12月13日に連れ去られた者もいる。福田氏は、データを持ってきてくれれば、出来るだけのことはしよう、と言ってくれた。と言うのは、彼も、そうした事態に悲しみを覚えたからである。明日532枚のデータカードを渡したら、彼はびっくりすることだろう。
 大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきて、今しがた3人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。彼女と一緒に駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏捷機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子文理学院に駆け込んだのだった。少女と一緒に学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内に初めて侵入してきた際、彼女の67歳の父親と9歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。
 今日は相当な数の爆撃機が西の方角へ飛んで行った。城内の火災は少なくなってきてはいるものの、完全になくなったわけではなく、毎日1,2件は発生している。

 (1)・・・1937年8月26日、駐華イギリス大使クナッチバル・ヒューゼッケン卿が自動車で南京から上海に向かっていた途中、大倉付近で日本海軍機に機銃掃射を受け、大使が重傷を負った事件。


「Imagine9」解説【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界へ



 また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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