2009年2月8日日曜日

1938年 南京 2月8日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月8日
朝8時。難民の女性たちがぴったりと体を寄せ合い、押し合いながら庭の真ん中の通路に立っていた。空いているのはここだけだ。そして、私が朝食をすませて本部へ出かける時間になるのを、辛抱強く待っていた。私の姿を見ると一斉にひざまずき、話を終えるまで、じとじとした冷たいセメントの床から立ち上がろうとしなかった。運転手の劉が通訳した。劉は難民に信頼がある。
「日本軍と自治委員会は、君たちが今日ここから出て行かなければならないと公式に発表した。私個人としては、このまま残っていてもちっともかまわないんだ!追い出すつもりはないんだよ!けれども、日本軍がきてここから出ろと命じた場合、1人の外国人にすぎない私にはどうしようもないのだ。いいかい、私には君たちをずっと守ってやるだけの力はないんだよ。どうかわかってくれ!むろん、そういっても日本軍を入らせないよう、出来るだけのことはするつもりだ。お願いだ、私をドイツ大使館に行かせてくれ。そして大使館の責任者と相談させてくれ」
「それじゃあ仕方ないよ」劉が叫んだ。そうとでも言うよりほかなかったのだろう。すると全員が立ち上がり、黙って私を見送った。

 今朝、ベイツと一緒に日本大使館へ行き、大使館員を誰か1人、百子亭の殺人現場へ連れて行こうと思っていた。ところが家を出てまもなく、200人ほどの日本兵が行進しているのに出くわした。いよいよ軍部が力ずくで安全区を取っ払うのだ・・・・私は不安になり、取るものもとりあえずアメリカ人たちのところへ駆けつけた。見張りに動員しようと思ったのだ。それから、1人でドイツ大使館にローゼンを訪ねた。彼は2つ返事できてくれた。私の土地と建物へ日本軍が侵入する現場に立ち会おうというのだ。だが、ありがたいことに、何も起こらなかった!部隊の行進は、誰か日本の将官が通るためだったのだ。
 おたがいにほっとして一時間ほどわが家で雑談したあと、一緒にアメリカ大使館へ行った。アリソン氏に会い、3人で今日のことを喜び合った。それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの5人で百子亭へ行った。4つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、すでに筵(むしろ)にくるまれていた。ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。それによると老人は自分の力車を取りにきたといっていたが、実際は、椅子を2つ、わら小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。そしてそれを日本兵に見咎められ、発砲されたのだという。老人は重傷を負って倒れ、妻(あるいは姉妹か?)が親戚の男を2人呼んで駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月8日 火曜日
こんなうららかな日がなぜ人を悲しい気持ちにするのだろうか。説明に窮する。窓外の松の木や薔薇のつるは、きらきらと輝く陽光におおわれていた。身が引き締まるように寒いとはいえ、なぜか小鳥のさえずりに、春到来、春遠からじの感を覚えた。だが、誰が春のすばらしい美しさを楽しめるだろうか。「迎春花」や野生の沈丁花の小枝、水仙、そして薔薇を見れば、1年前には私たちと一緒にいたのに、今は散り散りばらばらになった友人たちのことを思い出すだけであろう。それは、私の生涯には多分再来することのない過去の幸せな時代に私たちがしていた仕事や遊びのことを思い出させてくれるだけであろう。
 10時に使用人の1人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけたが、そのまま立ち去った。のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は4人の女性と一緒に南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。4人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。というわけで、私が姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。はじめはカッとして、彼の銃剣をひったくりーその好機はあったー、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
 午前11時、代理大使(正しくは参事官)の日高氏に渡す報告書を携えて日本大使館へ出向いた。上海へ出発する直前だったが、さいわい、5分ほど彼に面会し、まだ戻ってきていない738人ーキャンパスにいる避難民の夫や父親や息子たちーのために彼の援助を要請することができた。
 1時20分、3人の兵士が視察に訪れたが、子どもたちの写真を撮っただけで、困るようなことは何もなかった。2時30分、別のグループー将校と憲兵各1名ーがやってきた。彼らは、かなり上手な中国語を話す人物を同伴していた。彼らにとって、10時に起こった事件は信じがたかったようで、実際信じてはくれなかった。
 2時45分、ラーベ氏とルイス氏が、日本大使館のコンサートに私を案内するためにやってきた。私たちは誰も行く気にはならなかったが、しかし、行かなければなるまいと思った。20人編成の楽団の指揮者は、実にすばらしい演奏プログラムを用意していた。にもかかわらず、私は音楽に没入することができなかった。「軽騎兵」序曲が演奏された時、私の心は、12月14日に校門を出て行ったあの行列からどうしても離れなかった。両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵のうしろから歩いて行った100人ないしそれ以上のあの一般市民の集団、いまだに戻ってこない集団のことだ。そして、「我らの軍隊」が誇らかに演奏された時、破壊された都市や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。私は、音楽を聞いたような気がしない。ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して多分20人の欧米人が出席していた。日本大使館の職員たちは私たちに(日本の蛮行を)忘れさせようと試みたのである。
 午後、イギリス砲艦ビー号がオランダの高官を乗せてやってきた。郵便物を持ってきていると嬉しいのだが。

 
「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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