2009年3月2日月曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 9日には、中華門の城外南方の農村地域の婦人たちが、次々と嘆願署名にやってきて、悲しい顔で彼女たちの悲劇を語っていた。同地域では、農家が焼かれ、水牛が日本軍の食肉用に殺害され、そのうえ一家の大黒柱の男性を殺害されてしまったため、村に帰っても農業をいとなむことはできないでいる。わずかに作物を作り始めた農夫がいるが、日本兵がやってきて、作物を盗むし、脅迫をするしで、とても危険だという。
 その日の午後、大変美しい若い婦人が3人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。この日で署名者は1035名になった。その数字の1つ1つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられている。数日後には、3ヶ月前に3人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、何とかして息子たちを帰してもらえる方法を知っているのではないだろうかと訪ねてきた。
 このころになると、日本軍の南京攻略を前にして周辺の農村に避難していた婦人や娘たちが5,6ヶ月ぶりに城内に戻ってくるようになった。しかし、帰ってはきたものの、自分の家は焼かれ、あるいは破壊されている人たちがほとんどで、多くが路頭に迷い、金陵女学院の難民キャンプに収容してほしいとやってきた。ヴォートリンにとってつらかったのは、南京国際救済委員会はすでに5月31日をもって安全区の難民キャンプをすべて撤去することを決定しており、新たな難民を受け入れないように申し合わせていたことである。それでも、ヴォートリンは、日本兵に凌辱される危険のある若い娘たちは収容してやろうと考えていた。
 生命の保護も含む救済を求めて大勢の女性が金陵女学院にやってきた。これ以上保護・収容ができないと告げられても、キャンパスを去ることができず、何度も立ち止まっては、恨めしげに、悲しそうにふりかえる女性たちを見ると、ヴォートリンは胸を締めつけられる思いがした。「私たちの力量、忍耐、資金のどれもが限られている。私たちにはできることしかできない」と12日の日記に記す。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
湯正有(男、82歳)の証言
 1937年の冬には、私の家は鼓楼三条巷1号でした。日本軍が南京を占領して間もないある日、突然日本軍の車が1台やってきて、日本兵が数人車から飛び降り、我が家のあたりから青壮年を3,40人捕まえて行ったのですが、私もその1人にされました。車に乗せられ、漢中門の外の河べりに着いた所で、降ろされ、河の真ん中まで引っ立てられて行きました。冬だったので、河の水はあまり多くはありませんでした。両岸に日本兵が何十人も銃を水平に構えて立っているのが見えるだけで、私たちはその中に挟まれているのでした。河に立たされていた中国の同胞は少なくとも4,5百人はいました。しばらくして日本兵の笛の音が響いて、機関銃がうなり始め、世にも凄惨な大虐殺が始まって、身に寸鉄も帯びていない普通の平民が悲惨にも血の海の中に倒れ、叫び声とうなり声と怒りののしる声とが、あたり一面にぐあんと響き渡りました。けれども私は倒れた人の群につまずいて倒れ、幸いにも機関銃には当たりませんでした。日本兵が行ってしまってから、体を動かしてみたところ、まだ活きているとわかりましたが、からだ中が死んだ同胞の血で真っ赤に染まり、、泥だらけでした。私は腹を据えて、死んだ同胞の屍(しかばね)の中から這い出し、辺りを見回して、迅速に殺人現場を離れました。漢中門、龍蟠里、清涼山と沿って行き、びくびくしながら、日本兵に取り調べられないように隠れ隠れして、夕方ごろに、ようやく自分の家に帰り着きました。その時、私はもうへとへとで、あの世で活きているかのようでした。あの時の日本軍が人殺しをしたむごさと私自身のこの九死に一生を得た体験とを振り返ると、今でもまだはっきり記憶していますし、永遠に忘れることはできません。(廖美慶が記録)
  
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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