2009年4月13日月曜日

中国東北地方への侵略

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 張寒暉と抗日歌曲「松花江のほとり」

 日本が満州事変を起こすと、憤激した中国の各界の人々は、次々と大規模な抗日救国運動に参加していきました。1936年、陝西省(せんせいしょう)立西安2中(現在の陝西師範大学付属中学校)の教師であった張寒暉(1902-1946:河北省定県の出身)は、大衆の抗日救国運動に励まされて歌曲「松花江のほとり」を作曲しました。国を愛し故郷を想う気持ちのあふれたこの抗日歌曲は、学校から軍隊へ、そして万里(ばんり)の長城の内外、長江の南北へと、たちまち全中国に広まり、抗日戦争期の救国歌曲の代表作となりました。中国人民は、この歌を歌うと心が奮い立ち、抗日戦争に勝利するまで戦おうという気持ちを鼓舞されたのでした。
 張寒暉は、「松花江のほとり」の他にも「軍民大生産」など、70曲余りの抗日歌曲を作曲し、1946年3月11日延安で病死しました。張寒暉は、聶耳(ニエアル)や洗星海(せんせいかい)とともに誰もがその名前を知っている人民芸術家です。

 ■「松花江のほとり」の歌詞(澤地久枝『もうひとつの満州』より)
わが家は東北 松花江のほとり
そこには森林と鉱山 さらに山野に満ちる大豆と高粱(コーリャン)がある
わが家は東北 松花江のほとり
彼(か)の地には我が同胞 そして年老いた父と母がいる
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から わが故郷を脱出し
無尽の宝庫も捨て去って 流浪、また流浪
関内をさすらいつづけている
いつの年、いつの月、私の愛する故郷へ帰れるのだろうか
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
  
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)支流の1つに来た所で、水にもぐり南へと進みました。私たちが願ったのは、第一になるべく早く日本兵の駐屯している区域から離れること、第二に民衆の船で家のあるのを一隻探して泊まり、身分を欺けるようにすることでした。みんなで20隻余りの船に乗って見たのですが、どの船にもお爺さんが唯1人眠っていました。(衣服など船にある財産を見守るのに留守をしていたのでしょう)。もう真夜中の3時か4時で、爺さん、爺さん、と何度も呼んだのですが、眠っていてびりっとも動かず、誰一人として起き出して私たちに答えてくれる人はいませんでした。その体に触って見たら冷たく、力を込めて抱き起こそうとしたら、体がこわばっていて、血がまだ流れているのもいました。その時やっと分かったのですが、留守をして船を看ていたお爺さんたち、善良な民衆たちもまた、1人又1人と日本軍に殺されたのです。それからは私たち手間取って遅くならないように、船に人が見えても、声をかけに行きませんでした。私たち艱難辛苦を経て、水路を行ったところ、ついに望みが出てきました。前の方の小さな船から赤ん坊の泣き声が聞こえ、きっとその船には人がいると断定した時は、うれしくてたまりませんでした。私たちはある船に乗るのに、2人で手足の泥をきれいに洗ってから乗ったところ、着る物がたくさんあったので、綿入れを2着それぞれ着て、庶民の恰好になり、そのまま船にいて前には行きませんでした。
 12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰ってきて、私たちに出て行かせようとしました。私たちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないから、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。私たちもそう聞いてもっともだと思い法雲時の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、私たちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査にきて、着ている物をひっくり返して見せろ、手を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)がない奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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