2009年5月25日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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 昨日は失礼しました。僕のパソコンがインターネットに接続できなかったので(理由は分からない)更新できませんでした。
 ・韓国のノムヒョン前大統領が自殺しましたね!!どんなことをしていたかは僕にはよく分かりませんが、韓国では悪いことをしていたら、大統領経験者でもよく逮捕されるのは驚きです!!陰謀かどうかは分かりませんが?
 日本では、悪いとことしてもうやむやになる場合が特に多くありませんか?特に日本の政治家や皇室の偉い方は!!


「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構

「9.18事変」以後、日本侵略軍は中国東北に傀儡政権「満州国」を設立し、日本の中国での植民地支配を実施する「国の中の国」とした。この時期は日本の細菌研究も大規模な実験段階に入り、自由に使用できる実験材料ー健康な人間の体を大量に入手するため、彼らは中国東北に秘密の実験機構を設立し、陸軍軍医学校防疫研究室の研究に協力していた。1932年7月から8月にかけて、日本軍は黒龍江省の五常県背蔭河鎮(ごじょうけんはいいんがちん)にて「中馬城」と呼ばれる細菌工場を建て、また1933年8月にハルピン市南崗区の宣化街と文廟街の間に実質上の細菌研究所である「石井部隊」をつくり、表向きは「関東軍防疫給水部」とし、また「加茂部隊」、「東郷部隊」といった別称があったが、これが731部隊の前進である。

 ●関東軍副参謀長の遠藤三郎は普段から日記をつける習慣があった。1933年、石井四郎による細菌実験の成果を調べるため、遠藤三郎は自ら背蔭河の細菌実験工場に赴き、当時の実験過程と試験状況を日記に詳しく記述した。これら日記は戦後日本で発見された。

 宮武 剛(編集)
『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』


 

 
   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)女工の1人が、いらない布切れを4枚手にしてはばかりに行ったところ、この男に調べられ日本刀で首を斬り落とされました。金という少年工が、ほんのちょっとこいつの靴を借りてはいただけで、電信柱に縛り付けられ滅多打ちされた上に犬を放たれ噛み殺されました。それに一度、こいつは中国人労働者の1人が自分のシャツを盗んだと言い立てて、その人を電信柱にくくり付け、日本人何人かでその人を標的に石を投げつけて、生きたまま石で撃ち殺し、犬に食わせたのです。これを見て私は、工場では仕事していけなくなり、工場の門のところで私の前からの本業である靴直しをやりました。ある日、8月頃かに、靴を直してもらいにやってきた日本軍の通訳(中国人だった)がたまたま私に、工場内の大きな穴に埋めた中国人には、「楊伯達」に殺害されたのがたくさんいる、と言ったのを聞きました。新たな仇への怒りと前からの恨みとが一気に胸に湧き上がり、自ずと大きな穴へ痛ましく死んだ人のことが想われ、自分の命も今にも失われようとしていることが思われ、「楊伯達」にやられた被服工場労働者の何人かの死に際のすさまじさが目に浮かび・・・して、この殺人をものともしない悪魔を亡き者にして、災難にも死んでいった同胞達の仇を討とう、と私は決心しました。じっとひそかに観察していて、こいつは毎日午後に工場内のあの大きなため池で行水するんだと分かりました。私は自分では泳げないもので、水に強い友達2人(あだ名で「大きい和尚」「小さい和尚」と呼んでいる2人とも私の相弟子)に頼んで手を下してもらい、「楊伯達」を水につけて窒息死させ、縄で石を体に縛り付けて、池の底に沈めてやりました。うまくやってから私達3人とも南京から逃げ出しました。3人別々になってから、私は徐州へ行って靴直しをやり、それから妻と息子を徐州に迎えました。
 その後また将軍の遺言済南へ行って生計の道を図りました。1949年に解放されてから、私達一家はやっと南京に帰ってきました。私は3521工場に入って仕事しました。1976年に隠退し、今はこの市の四条巷康楽村3楼24号に住んでいます。(許亜州が記録)


       「Imagine9」【合同出版】より




世界は、


9条をえらび始めた。



・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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