2009年7月19日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!
●731部隊はどのようにしてつくられたのか?天皇と皇族の731部隊への係わりは?

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊
『死の工場(隠蔽された731部隊)』
(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳)より

10章「誰が知っていたのか?」

(昨日の続き)・・・・(省略)・・・・
 事実、裕仁は、絶対的な支配者でもなければ、イギリスの君主が演じてきたような役割に似た名目上の皇帝でもなかった。裕仁は、長い治世のの間、政府の〔懸案〕事項を詳細に把握することに没頭した知的なリーダーだった。彼は政策決定者ではなかったが、彼がそうしようと思ったときには国家事項について抑制をきかせる役割を果たすことができた。しかし、満州侵略から日華事変、真珠湾に至るまでのたいていの軍事的な決断の際、この1500年日本の支配的地位にある一族の直系の子孫は、受け身的な役割を演じた。明らかに彼が軍事事項に強制的に介入した唯一の時は、1945年8月にアメリカとの戦争を終わらせるべきだと主張した際であった。しかし、裕仁について、どのシナリオを受け入れるとしても、天皇の地位を評価するとき、考慮に入れなければならない大量の状況証拠は存在している。(明日に続く)

 ※私は昭和天皇が受け身的な存在であったとは、全然思っていない。あの戦争に積極的にかかわりいろいろと決断を下していたと思う。731部隊関係のことでもあれこれ指示を出していたと思っている。
 
日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

陳橋(男)の証言

 私は日本軍の南京大虐殺の生き残り証人です。家は旧は南京門東辺営21号でした。1937年の12月10日に、国民党の将兵たちが北へ逃げると街沿いに伝わりました。私はその時15歳で、母について難民区へ逃げ、高家酒館安楽里の3階建て家屋の1階の客間(今の高家酒館41号の1か2)に住まっていました。
 住み込んだものの、砲声や銃声が耳に絶え間なく、安楽な里に住まっていながら、少しも安楽な気分はしませんでした。11日や12日は国民党の将兵が大量に中山路や中山北路を下関の方面へ逃げ走るのしか見えず、誰もかれも緊張した面持ちで、ちょうど潮が引くような、全く兵敗れて山崩るるが如しでした。
 12月の20何日か、もうじき陽暦の暮れという頃に、突然日本兵の一隊が安楽里に闖入して来、顔の真ん中の黒い日本兵が1人私の住まいに闖入し、私の方へやって来て、後頭部にぴんたを1つ撲ったので、私が客間から外へ走ったら、外にはたくさん銃を持った日本兵がいて、百人くらいの人がそこに縛られているのだけ見えました。私も出て行ったら縛られてしまい、ぴりぴりした情況でした。その時部屋にはまだ青年の人がいたのですが、私が背が少し大きかっただけなのです。
 ちょっとしたら年取ったお母さんが1人日本の将校に1つ叩頭して、息子を引き取って行きました。又、もう少ししたら、日本語が話せる帰国した華僑だという人が出てきて、その将校としばらく話していて、その将校が私たちの一団を釈放するのに同意したのですが、ただ1人留め置いて放とうとせず、そいつは中国兵で、頭に一筋帽子の痕がある、と言うのでした。その帰国した華僑がその人は人力車牽きで、長いこと散髪してなくて、お椀型の帽子をかぶっているため、圧されて帽子の筋がついているのだ、と説明したので、その将校はその人を放ちました。その日本語の分かる華僑が私たちを救ってくれたのです。それから何日かして、難民区と幾つかの慈善団体とが、埋葬隊を組織しましたが、街の小道や大通りや下関の江辺・・・・と至る所に屍がうずたかくなっていて、見るに忍びませんでした。
 我が家の隣の奚小翠の父親が、難民区へ行かず、自分の家に住んでいたために、日本軍に銃殺されました。(劉相雲が1993年10月に本人からの手紙により整理)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。


「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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