2009年8月5日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!
●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

1,白地に紅く

(昨日の続き)ハルピンの朝
731部隊から入隊許可書が送られてきたのは、昭和16年の春だった。いろいろ自分なりに悩んだ末の入隊希望だったので、不安はあったが、やはりうれしかった。準備のため長野の実家に戻り、父や母と別れを惜しんですぐ下関に向かった。そこから船で大連へ、次は汽車で5日間かけ、ようやくハルピンに着いた。
 5月の初旬のハルピン駅の朝はさわやかだった。汽車から降りると、きれいな音色の鐘が鳴り響いていた。当時満鉄は発車時に、汽笛のかわりに鐘を使っていたのだった。駅舎はドーム型の赤煉瓦づくりの美しい建物で、駅前広場は広々として、厳しい冬を突き抜けて一斉に芽吹き始めたアカシアと、ポプラの並木が続く広い通りが、放射状にのびていた。そして一頭立ての馬車、マーチョがのどかに並木の間を行き来している。異国風のハルピン駅の風景は私の心をわくわくさせ、何か新しい運命への期待を抱かせるものがあった。
 とりあえず私は、731部隊への入隊に世話をしてくれた斉藤さんの家に、泊めてもらうことになっていた。 (明日に続く)


※軍隊から一時解放され、新天地での新しい生活に多少不安もあったが夢を膨らませている。世の中、なかなかうまい話はないものですね!!(ノブ)

日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

蒋冠英(男、67歳)の証言
 1937年の冬月9日には、家は浦口で、私は20歳でした。中国の警官たちが私たちを住んでいる所から追い立てて、日本人が来るぞとか何とか言うので、その晩9時頃に、私と妻と8歳の妹にそれからお隣とが、河沿洲の小さな村へ逃げたのですが、その時とっても取り乱していて、そこに着いて見たら、妻ははぐれてしまっていたのが分かり、それ以来私たちずっと会えずにいるのです。
 冬月11日の午前中、一緒に逃げた4人と好奇心で街へ走って行ってみて、長江の土手に腹ばいになって見ていたら、不意に銃声が2発聞こえ、2人やられてしまい、残った2人で走って帰ってきました。
 冬月12日の午後、私たち6人(男2人、女4人)みんな若いのが、空き地で竹のベッドで 日向ぼっこしていたら、日本兵が4人来て、私たちを中国兵だと言い、ベッドから引きずり下ろし、私たち動けもせず、日本兵4人が婦女4人を家に引きずり込んで強姦した、その機に乗じて、私たち2人は逃げ出しました。夜になって、帰ってきた時、彼女たちが口々に泣いて訴えるには、前後してみんなで20人余りもの日本兵が彼女たちを強姦したと言います。その時、私たちはその4人を小双心圩まで送って隠れさせましたが、その内の1人は腰すらまっすぐには伸ばせませんでした。
 冬月13日の晩に、私は張さんというお婆さんとまだそこで門番をしていました。また日本軍が何人か来て、夜ではっきり見えなかったのか、門を入るなり私とお婆さんとにホアクーニャン(=若い娘)をと要求するので、ホアクーニャンはいないと言うと、辺りを見て、本当にいないと分かったら、銃剣で私の腹をむやみに刺したので、後で私は腹に痛みを感じ、血が流れているのに気づきました。今でも腹にまだ日本軍が残した傷痕があります。(王瑞屏と魏福が記録) 
※一般の庶民が訳もなく殺害されたり、強姦された。また、ちょっとしたことで銃剣で刺された。何でこんなことをしたのだろうか?あまりに無謀な作戦で日本軍兵士は神経が高ぶり、興奮していたのだろうか?(ノブ)
 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

ひとりひとりの安全を


大事にする世界


また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。
 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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