2010年3月6日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」 
              
 北野は、奉天における教授としての地位を10年間維持し続けた。その年月の間、彼と同僚たちは医科大学の中で、かなりの数の中国人、朝鮮人、その他の「劣った」人々を、実験の過程で殺した。その残忍さは、石井の実験の向こうを張るものであった。まだ生きている人体を使用した実験や解剖の経過の詳細は、先に殺してしまってから解剖されるケースと同様、平房の恐ろしいエピソードに酷似していた。1945年、日本人は奉天で細菌戦関連の作業を行っていたという証拠を隠滅するために死力を尽くして努力したが、その犠牲となった人々の、多くの標本は保存された。それらは今日、医科大学に陳列されていて、北野の仕事の無言の証言者となっている。
 彼が731部隊の司令官「代理」を務めた22カ月間(1942年8月から1945年3月にかけて)、北野は、彼が石井の後継者として12分にその資格のある人間だと証明して見せようとした。彼は事実上、平房における細菌戦に関する人体実験の規模を拡張した。戦局が日本にとって悪化しているという事実にもかかわらず、苦心して彼は1944年に本国から新しい設備を手に入れた。彼が配下の者たちに供給した機具は「従来のそれよりさらに完全なものであって、細菌培養業務をコンヴェーヤー式に実施し得るものであった」。北野は、石井の噴霧技術を改良して1944年には上海近くでペストの実験を実施、非常に高度な成功を収めた。この実地試験はフィルムに撮影され、その最初の上映会で、関東軍司令部の幹部連に強い印象を与えた。彼が平房にいた期間は短いものの、その間に彼が成し遂げたことの持つ意味は重要である。
※北野が人体実験の規模を拡大していったことが分かる!!北野は戦後、内藤良一の起こした日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)に招かれた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他の親族の殺害
岳松寿(男、77歳)の証言
 日本軍が1937年に入って来た時、家は漢西門の大街でした。祖父が日本兵に虎踞関から捕まって行き、掛け布団を担がせられ、中華門外まで運んで、殺害されました、後で、よく知っている人が祖父の死体を見かけたと言って、家族に確認に行かせたら、本当にそうで、祖父は顔に血を流していました。(徐誠と呉義梅が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。?事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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