2016年5月27日金曜日

国家犯罪!731から熊本大震災まで!!

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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展



●ニュース
オバマ大統領 きょう広島訪問

「はだしのゲン」作者 米大統領に宛てた手紙見つかる

核廃絶へ松本で決議 非核宣言自治体協が総会

「真摯な解決姿勢見えず」

沖縄県議会、抗議決議と意見書を可決

「沖縄の米軍駐留、地域に負担」 オバマ大統領回答


<安倍首相>消費増税、再延期へ 「リーマン前に似ている」

安倍首相、消費税増税の再延期を示唆。- 2016.05.27


AV出演強要、IPPAは「AV業界は重く受け止めるべき」とコメント シンポジウムに松本アナも出席 

トランプ氏 指名獲得に必要な代議員確保

高速実験炉「常陽」 再稼働は出力抑えて運転の考え

学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

原爆の子の像 禎子さんの兄とトルーマン氏孫が講演

「もんじゅ」の運営主体の議論 「勧告に沿っていない」

「核のごみ」処分場 適した地域 10月以降に提示


日 被爆国強調しつつ保有は「合憲」  米 「核なき世界」強調も優位性優先
ぎまん (`・ω・´) 原爆使用は戦争犯罪として告発しよう!

STAP細胞の特許出願、米ハーバード大学が世界各国で…今後20年間、権利独占も

ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見

・ロナルド・レーガンは地震の時どこにいたのか??人工地震の影響??


小泉氏が涙 トモダチ作戦の健康被害「見過ごせない」

小泉元首相、被ばく訴える元米軍兵士支援の基金設立を検討

???
ロナルドレーガンの乗組員が被曝してるのに何故それより近くにいた東電職員が被曝しないんでしょうか?
自然は人類の都合とは関係なく動いている…だ・か・ら…(;´д`)

何で、情報開示しない??
特定秘密の運用監視 情報開示促進で意見聴取へ

軍事費が国を滅ぼす!!
トランプ氏の「日本防衛費全額要求」について。-2016.05.05


志賀原発1号機の断層「動く可能性否定できず」

<ハンセン病>元患者ら「身内に甘い判断」特別法廷報告書に

光田健輔園長が初診察で「宇佐美、出て行け!

「組織罰」実現へ団体発足 尼崎脱線事故の遺族らがシンポ

天皇や安倍首相は731部隊跡や南京虐殺記念館には行かないのか?
米・オバマ大統領、5月27日に広島を訪問する方針固める

なぜだ??
米高官 核燃料サイクルに反対も日本に放棄求めず

20160402 自由なラジオ・ライトアップ「小出裕章ジャーナル」




●脱原発!!
税金の無駄遣い!!やめてもらいたい!!
もんじゅ改革めど立たず 報告書案、新運営団体は未定

「もんじゅ」の廃炉求める提言 市民団体がまとめる

「核のごみは浜岡敷地内で処理すべき」 最終処分で川勝・静岡知事

ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見

地震大国日本!これでも原発を動かすの??
活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ

「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
甲状腺がん「チェルノブイリの多発傾向と酷似」〜疫学専門家

福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
母ちゃんの嘆き…子どもの叫び…過去を心に刻もうとしないモノへ…(¬_¬)


福島の甲状腺がんの患者に対していつ国は賠償をするのだろうか??
以下『NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?』
のビデオの冒頭の部分起こし。

「放射能は怖くない」。そう教えられていました。第2次大戦後、アメリカは爆心地の近くで人間はどこまで戦えるのか人体実験していたのです。その数25万とも言われるアトミック・ソルジャー(Atomic Soldier)、アメリカ政府が責任を認め、兵士たちに賠償するまで40年かかりました。
また、チェルノブイリ原発事故で多発した子どもたちの甲状腺がんが、放射能が原因だと認められるまで20年の歳月がかかりました。

5年前に起きた東電福島第一原発事故、100ミリシーベルト以下の低線量被曝を受けた作業員たちも病魔に襲われています。・・・・

NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?

・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫ばない??
731部隊でも放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
科学者は、治療よりも、やはり新兵器に夢を託すのか?再び大日本帝国を目指して。
毒ガスの製造が明らかになったんだから、それと並行して生物兵器、核兵器も勿論自衛隊、国立感染症センターなどでは研究しているだろう。
731の秘密を隠すために、放射能の被害については、何も言わない??
「心証を良くする為にとは、何のために心証をよくするんですか?」
「731のことなんかもあるでしょうね」
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?

放射能の危険性


トリチウム処理「慎重対応を」 県と県漁連
トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!
トリチウム含む汚染水 海洋放出が最安で最短の評価結果
川内原発は不安「すぐ止めて」 首相官邸前で緊急デモ
原発運転反対の弁護士団体 川内原発停止を申し入れ
M7.3地震 約50キロの断層が2m近く横ずれか
地震回数が過去最多ペース 気象庁、活発な活動続く
「川内原発の運転停止求めた」 共産・小池氏
「川内」運転 住民ら不安 政府、地震域拡大でも静観
【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16




●731問題
特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍事増強を阻止しよう!!





4月12日(火)15:00から東京地裁419号室で『衛生学校記事』の情報公開裁判がありました。
10回目の法廷で、初めて傍聴席52席が満杯になり、熱気を帯びてきました。
なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?
衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない??
原告の陳述より

1 はじめに一今年1月と3月の街生学校見学について
私は、『衛生学校記事』のことで、陸上自衛隊衛生学校内の諸資料の保管
状況を自分の目で確認したい、或は自分で探したいという思いを抱いていました。
それで、今年の1月14日に、○○衆議院議員の衛生学校等への視察
に同行させていただきました。こうして私は衛生学校図書室及び併設されて
いる彰古館の書庫を直接自分の目で見学する機会を得ま した。
また、その後、今年の3月9日にも、衛生学校の彰古館を見学しました。
以下、上記2回の見学でわかったことを述べます。


なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。
※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!!



日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!!
<G7外相会合>「核兵器の非人道性」盛らず 広島宣言

歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!!
TPP文書だけではない!!
ビキニ事件 周辺で操業の元乗組員などが国を提訴へ
内部文書「黒塗り」の中… TPP内幕本の出版未定に
開示された文書「何で黒塗り?」

歴史を繰り返さないための海外の取組み!!日本もパナマ文書等、情報を開示せよ!!
<パナマ文書>中国2.8万件 日本関連800件
パナマ文書 民進が調査チームを発足
ヒトラー生家、強制収用へ=ナチス支持者の利用防止―オーストリア
守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
何で、行政が後押ししない??
高知県、731部隊講演の後援断る 「事業に該当せず」
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?
戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!
私自身が逮捕した天津における烈士は、あまりそのような内容に該当しない人なんですよ。諜報員それ自体の宿泊の便宜を与えただけであってそれ以外の関係もなかった。・・・・昭和14,5年頃からの予算がね731部隊だけで1千万。関東軍の総予算が2千万、残りの1千万があの当時満州に駐留している師団が11個師団ぐらいおったんかな、1個師団2万人として、20万から23万ぐらいの人員に飯を食わせて、服着せて、靴はかせて、防寒着を着せて、鉄砲玉作ってね、支給してという費用が1千万。731部隊の研究費が1千万。そういう莫大な予算をもらっている関係もありますわね。・・・・細菌戦とか毒ガス戦というやつは、条約で禁止しておる関係があって、世界各国極秘裏に研究をやっておるわけですね。ですから、我が731部隊自身のの存在自体もですね、これは重要な最大の国家機密として位置づけられて、極端に言えば日本の国挙げての保護のもとに我が部隊が成り立っていた!!

731(1)



・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15


※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。


朝枝繁春の証言





●水俣病
水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。

水俣語り部、金子スミ子さん死去 一家で経験の苦しみ伝え
「出生年の線引きはおかしい。確かに症状があるのに。認めてほしい」
<水俣病>46歳、認められぬ苦難…公式確認60年
水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病


水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は
日本の公害






イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!!
G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山

1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。
1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。
1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・
2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。
さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。
患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。
しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。

ドキュメンタリー:イタイイタイ病

「イタイイタイ病」全面解決??


萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか???

「カドミウム原因説」発表後、萩野を取り巻く状況は一変する。「田舎医者に何が分かる」「売名のためのPRだ」と罵声が浴びせられ、地元からも「嫁のきてが無くなる」「米が売れなくなる」と白眼視される。「萩野は砂利トラックに撥ねられて死ぬだろう」との風評が飛びかい、患者の元には白衣の男たちが現われて「鉱毒説に関わると大変なことになる」と脅迫した。萩野は荒れ、富山市内に繰り出しては飲み歩く日々が続いた。・・・・・


萩野昇の人生
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
イタイイタイ病と出会う
イタイイタイ病の患者のほとんどが40歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はみられず、男性患者はまれであった。更年期の主婦、しかも子供を多く産んだ経産婦がほとんどであった。中年女性に発症することから、イタイイタイ病を抱えた家庭は、家事を支える主婦を失ったのと同じ状態に陥った。病魔に襲われた主婦は農作業はできず、家事もできず、家計は苦しくなった。当時は医療保険のない時代である。医療費はかさみ家族全体が貧困による生活苦から抜け出せずにいた。また中期症状として恥骨の痛みがあり、股を開くことができず、排便も困難になり、夫婦生活はもちろん不可能となった。






●横浜「戦争と加害」のパネル




細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)

毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜




参観者の感想
・まず、事実そのものが現在の日本社会であまりに共有されていないこと(加害責任の生まれようがない)が、何より問題であると考えているので、このような展示会は極めて貴重かつ重要になってくると思います。私自身、あいまいな認識で生きてきたので無責任もいいとこだったと強く感じる。20代男性

「戦争の加害」テーマに 13日まで横浜でパネル展





●全世界!!脱原発!!核兵器廃絶!!どこで地震・テロが起こるか分からない!!
核廃絶へ松本で決議 非核宣言自治体協が総会

核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!

この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ

オバマ氏「道義的責任」言及へ 訪問時、広島・長崎の犠牲者追悼

広島原爆投下


戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

小路田泰直
仁科らは確かにアメリカの呼びかけに応えたのである。

では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」 [★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)



*謹書は吉田茂。墓右に朝永振一郎の墓が建つ。


彼の最後の公職は、1936年から1938年までの、駐英日本大使だった。それに、彼は南洋への進出の提唱者ではあったものの、アメリカへの攻撃を必ずしも必要とはしていなかった。1941年、アメリカへの攻撃はまだ回避できると考えていた。骨身を惜しまず丹精した結果、67歳にして、今や彼は、真価が認められようとしていた。マッカーサーや将官たちは彼を事のほか気に入り、1946年から1954年の間、5回にわたり首相となり、戦後日本の立案者として記憶されることとなった。





*同墓所にはノーベル物理学賞受賞者である朝永振一郎とアメリカの物理学者であるハリー・C・ケリーも眠る。

多磨霊園の仁科の墓
理化学研究所に入り、1921~28(T10~S3)海外に留学し、ラザフォード・ボーアらに学び、原子物理学の理論と実験を研究。28X線のコンプトン散乱に関して〈クライン - 仁科の公式〉を発表。同年末帰国。 31以降理研主任研究員として原子核・宇宙線・量子力学の研究を進め、これら各分野の開拓者となる。その門下から朝永振一郎(同墓に眠る)をはじめ多くの俊英が輩出した。 また核破壊装置の建設をすすめ、37我が国初めてのサイクロトロンを、44には当時世界最大級の大型サイクロトロンを完成させた。 戦後、46理化学研究所長。48理研の解体後、株式会社科学研究所を組織し社長となり、また日本学術会議副議長などを歴任した。46文化勲章受章。<コンサイス日本人名事典>

*規則が厳しい多磨霊園では例外的に、血縁外の人物と眠る。仁科芳雄の墓の右側に「朝永振一郎 師とともに眠る」とあり、謹書は仁科芳雄を師として研究を共にした喧嘩太郎の異名をとった内科医の武見太郎。

武見太郎
731部隊への批判を封じ込めた??なぜ、医者として原子力に反対しなかったのか??
日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。・・・医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。

※世界医師会と日本医師会の関係
日本医師会は1951年の第5回ストックホルム総会において加盟した。1975年に「医療資源の開発と配分」を主テーマに第29回世界医師会東京総会を、また2004年には「先端医療と医の倫理」・「ITの進歩と医療」を主テーマとして2004年世界医師会東京総会を、日本医師会主催により開催した。これまでに第29代武見太郎(1975年就任)、第52代坪井栄孝(2000年就任)が会長に推戴されている。(ウキペディアより)

※世界医師会における戦争医学犯罪の追及
ナチスによって近親者を虐殺された米カリフォルニア大のフランツブラウ教授(皮膚科学)らは、1970代からナチスに加担した医師を追及してきました。・・・・731部隊の戦争犯罪を知ったフランツブラウ教授は「731の問題から目をそらすことは、日本の医師が自ら品位をおとしめる」として日本医師会の責任を行って来ました。・・・・
日本医師会はすでに議論済みとし、「この案件を無期限に延期する」動議を提出しました。日本の医学界では「人間の価値」のような検証と反省がないばかりか、隠蔽し不問に付したままの状況が続いています。
(『パネル集 戦争と医の倫理』より)


茅誠司
日本学術会議会長として日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
※南極特別委員会には731部隊第2代隊長、北野政次(東京血液研究所所長)、731部隊で悲惨な凍傷実験の人体実験を行った吉村寿人(京都府立医大教授)、戦争中京都大学教授で弟子を731部隊に送り込んだ戸田正三(金沢大学学長)も参加している。
※日本の原子力研究において、この三原則「自主、民主、公開」は全く機能していないのでは??積極的にアメリカに追随して、全ての情報を隠蔽している!!



原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~


樺美智子さん(60年安保闘争の犠牲者)の墓誌





「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ




安倍首相も731を訪問したら!
シャーマン前国務次官は、「将来、米国人の過半数が原爆投下を『誤り』と思うかもしれない」と指摘する。
オバマ大統領は09年4月のプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的な責任がある」と表明。翌10年から駐日米大使ら米政府高官が毎年、広島、長崎を訪れるようになった。
米世論の変化が後押し=オバマ氏広島訪問

NHK世論調査 米大統領の広島訪問 「してほしい」70%

アメリカはじめ、核保有国は核実験(未臨界実験も含めて)をやめろ!!
軍事費が国家財政を破綻させる!!
世界のどの場所でどのくらい核爆発が起きたのか


核兵器



政府の唱える非核3原則は嘘っぱち!!なぜ、核融合の研究・原発再稼動する??
オバマ氏広島訪問 韓国メディアは反発と警戒 「加害者を被害者に変える」

米政府が言及 広島は“核なき世界の象徴”

原発再稼動、「反対」が43%、「賛成」が18%
安保関連法 評価する42% 評価しない48%

「メルトダウン」事実と異なる説明 徹底解明を要請

<G7外相会合>「被爆した最後の館長」が思い…10日開幕

除染などの費用 今年度までだけで3兆円以上の試算

憲法に優先する安保条約であるなら、アメリカと合同で極秘に核兵器開発を進めることも不可能では無いのではないか。
この甚大な被害をもたらした大地震の原因の究明はされていない!!地震学者も驚いているではないか!通常の地震とは違った!!
何で国は、北朝鮮からのミサイル攻撃の時の原発の被害想定などを国民の目から隠す!!被害は甚大である。
プルトニウム44tを何に使う??核兵器がそんなにほしいのか??

小出裕章先生:一番大切なのは多くの人達が真実を知る。そして一人ひとりが責任を持って声を挙げること


プルトニウムの使いみち はっきりしない状況続く

2011年3月11日 車が流される 人が飲まれる 津波


原発事故の原因が究明されずになぜ再稼動??
原発事故の原因はなぜ解明されない??


20150502 R/F #121「小出裕章ジャーナル」【原発攻撃被害報告書が明るみに】


巨大地震、津波の原因は??
なぜ、地震学者が驚く!!









なぜ、税金を使った調査結果を公表しない?隠蔽するな!!
1つ目の㊙
原発がもし日本で事故を起こしたらどれほどの被害が出るのか?(1959年)
2つ目の㊙
原発が攻撃されたらどんな被害がでるのか?(1984年)
「2つの㊙と再稼動」



やはり、日本は核兵器を既に持っているのか??
政府、「憲法は核兵器保有を禁止していない」とする答弁書を決定
(以下「高知新聞」より)
要約すれば、憲法は理論上は全ての核兵器の使用を禁じていない。だが、「現実」がその歯止めになると読み取れる。
現実が憲法を超えるとするなら、政府が守ると言っている憲法の平和主義も、核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の「非核三原則」の国是も一気に空洞化する。
法的な歯止めではない現実は、刻々と変わる。時の政権の判断によって、核兵器の使用が可能になる余地が残る。
国会の場で、日本の核兵器使用が現実味を持って公然と語られる現状にも驚きを禁じ得ない。

【法制局長官答弁】核使用まで容認とは驚く

この人は核兵器と通常兵器を全く区別していない!!
「核兵器の使用」横畠裕介・内閣法制局長官の答弁記録3 18参院・予算委員会


日本も地下核実験をやっているのか?(アメリカと合同で)
人工地震津波兵器は国際政治軍事上の常識!浜田復興担当政務官


地震学者の「今までやってきた研究が全て無駄だった」という発言は、本当に東日本大震災の原因は何だったのかを考えさせられる!!!
いまだ福島原発事故の解明はされていないのになぜ原発再稼動!!なぜ原発輸出!!
明らかに、全く戦争の反省がない日本は本気で核兵器の保有を考えている!!
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~


3回の破壊って何のこと??
東日本大震災人工地震


この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

宇野正美 311人工地震攻撃は日本のプルトニウム製造を阻止するのが目的だった


三権分立は日本にはない!!
原発訴訟の希望と絶望


元東京電力社員・木村俊雄が告発する福島原発事故の真相 2 1


自衛隊技術者15人は311テロ計画を知らないで爆弾製造に携わっていたようです

あの戦争で日本軍のしていたことを全く反省していない日本。
だから、戦後も、自衛隊を中心に『防護の為』と称して、核兵器の開発、毒ガスの製造、生物兵器の開発が行われているだろう!!
毒ガスの製造は確認できた!!生物兵器は勿論核兵器もか??
そして、戦争になって初めて、自国がどんな兵器を持っているか気付かされるのでないか?

<小出裕章さんに聞く>日本のメーカーはなぜ原発にこだわり続けるのか

福島の子どもの甲状腺がんで「家族の会」結成

米専門家 日本でプルトニウム増え続ける現状に懸念

小出:炉心にあった燃料はすべて使用済み燃料プールに移されていた。溶け落ちなかったんですから、ホントだったら水素爆発は起きないはずだったんですが、なぜか4号機でも、巨大な水素爆発が起きました。(ビデオ27分過ぎ)なぜ、4号機で爆発が起きたんだ??原因究明が全くなされてない!!
小出裕章講演会 20160124 山口市県教育会館



地震発生(1944年12月7日)の翌日8日の新聞のトップは昭和天皇の写真。(開戦記念日)

地震の詳細は掲載されない!!被害は隠す!!

東南海地震:「地震の次は何をお見舞いしましょうか」とB29がビラ



元NHK五十嵐さんが命をかけ伝えたかった人工地震の真実



●憲法9条
憲法9条のノーベル平和賞推薦 3年連続の受理
「憲法は私たちが支えてきた」 江東の公園 集会に5万人
9条「変えない」が増 安保法影響か 朝日新聞世論調査
海外邦人ら「9条守れ」 「平和憲法」価値、離れてこそ実感
安倍政権下での「改憲反対」56%について。- 2016.04.30


国連とは何か??(アメリカ中心主義??)
国連の役割


八王子から日本を変える!!
NO WAR!八王子アクション

2015.11.14 第5回 NO WAR ! 八王子アクション@八王子駅北口


脱戦争!!軍事費が国家財政を破綻させる!!
現代の戦争(ハイテク戦争)
ハイテク兵器



彼らは本気だ。安倍晋三首相は、夏の参院選で改憲勢力による「3分の2」の議席を目指すという。
彼らと真逆の憲法は作れないか?
・憲法9条を守る!!・外交を強化する・自衛隊は災害救助隊に
・象徴天皇制を廃止して、大統領制にする
・脱原発 ・靖国神社を廃止して、戦争懺悔慰霊碑の建立
・日米安保条約廃止・国連改革



・憲法9条(侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


03
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。

Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each other.

Представить,
Мир, который обещал
чтобы не воевать друг с другом

想像,
许诺的世界
不打仗与对方




IMAGINE9 (『イマジン9 想像してごらん、戦争のない世界を。』(文:星川淳・川崎哲、絵:成瀬政博 2007年12月1日発行、合同出版)


IMAGINE9
解説
03
おたがいに戦争を しないと約束した世界

「相手が攻めてくるから、 準備しなければならない」
軍隊は、いつもそう言つて大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしてぃきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどんと増えていきます。
このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めないという約束を結ぶことができます。とくに、地域のなかでこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ連合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちのあいだでは 「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。

その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。日本や韓国、北朝鮮は核兵器をもたないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
また、日本とロシアのあいだで争いになっている 「北方領土」 周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。

地球規模では、世界各国が軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つことが重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
グローバル化の時代、人びとは国境を越えて行き来し、経済や社会はつながり合っています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。

豪潜水艦共同開発に日本選ばれず 武器輸出拡大は継続
国産ステルス実証機が初飛行
武器輸出三原則
今の現状防衛装備移転三原則



●ご案内
秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)

アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。








●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。



細菌戦裁判(1997年~2007年)


細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)


暴かれる毒ガス戦の真実


(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。


・パネル展






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦





細菌戦部隊731


石井隊長の戦後1



「ミドリ十字」という会社


内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月  厚生省

碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴

イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
プロローグ>


第一章 「美談」の眩惑
国家プロジェクトの光と影

しかし、当時、大掛かりな調査研究活動の中核をなしたのは、厚生省所轄の「原爆症調査研究協議会」とその後継の「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」を核とする、国家的プロジェクトだった。
1954年10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」には、同様に国家プロジェクトだった1945年の広島・長崎の学術調査団に参加した医学者、科学者が再結集した。原爆症研究の第一人者、都築正男をはじめとして、東大からは、中泉正徳、木村健二郎ら、東京第一病院からは熊取敏之ら、元理研から山崎文男、田島英三らが連絡協議会に関わっていた。

原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)


放射能汚染地図「川で何が起きているか?」


封印された原爆報告書





●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗


アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)


「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書
報告書には海軍の化学兵器の全容のほか、陸軍側の研究、生産状況や、毒ガス研究機関だった第6陸軍研究所、化学兵器戦の訓練教育に当たった陸軍習志野学校の各見取り図、化学戦装備の写真なども一緒にファイルされていた。
資料では「日本には陸、海軍とも独立した化学戦組織はなく、毒ガス研究も計画性はなかった。装備が十分だったのは中国遠征隊と満州・関東軍ぐらいで本土決戦でも在庫不足で大規模な毒ガス攻撃は無理だった。ドイツとの協力もほとんどなく、これ以上の詳細な調査は必要ない」と結論付けており、米国側が日本の化学戦についてまとめた最終報告書とみられる。
日本の毒ガス作戦に詳しい栗屋憲太郎・立教大学教授(日本現代史)の話
海軍の毒ガス研究については関係者らが口を閉ざし、霧に包まれていた。まとまった報告書が見つかったのは初耳で、海軍側の解明の糸口になる基礎資料だ。終戦後の戦争裁判では毒ガスについて起訴状では触れていたが、なぜか途中から扱われなくなる。日本軍の毒ガス戦を米国側がどう見ていたかを知るうえでも、参考になる。

アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)






・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」

そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。

第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。

※それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか? 





※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!


日本は現在も毒ガスを製造している!!







・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス

日本軍の毒ガス被害


昭和天皇の“沖縄メッセージ”



●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良

8月24日(月)




すると、ラマ僧がラマ教を唱え始め、皆さんで三礼をして手を合わせました。再び遺族の方2人と私でひざを着き、頭を下げました。男性の母親が呂嬌さんという犠牲者の方で、そのご家族と友人の方たちが今回のメンバーでした。墓碑の中央には、18人の犠牲者の氏名が刻まれ、右側に事件が起きた1942年10月15 日の文字が、左側には1948年4月3日建立との文字が読みとれます。事件の背景には、錫鉱山で従事していた華僑労働者が採掘した錫を抗日組織などのゲリラに提供し、密通していたと疑われたことにある。事件当日、露天堀労働者の寮があったこの場所で、建物内に18人を閉じ込めた。その際、日本軍は労働者が逃げないように手の甲を針金で貫通させ、数珠つなぎにし、火を放った!実際の犠牲者数は、18人以上であったとも言われています。氏名からは 4人が女性であることがわかる。私は、この事件の詳細について知ったのは、帰国してからである。当初どうしてこんなにも山奥で殺害されたのだろう?被害者は、一般住民なのか抗日兵士なのか?と疑問を抱いたままでした。その謎が解け日本軍の残虐さを知りました。遺族お二人は、思いを熱く語りかけるように深々とお祈りをして、終えることになりました。
11:00
お供え物は、天国で困らないようにと燃やされ、後片付けを終えてから出発しました。帰りも無理をせずゆっくりと下る。女子学生の一人は、遺族の休憩用に椅子を背負い、様子を伺いながら休ませていた。汗を拭き取り水分を補給し、うちわで扇ぎ、皆が連帯している様子。そのような光景を何度か繰り返しながら、停車所へ辿り着きました。





●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。



荒木貞夫

1877.5.26(明治10)~ 1966.11.2(昭和41)
大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、大臣、男爵

東京出身。旧一橋家臣で小学校校長を務めた荒木貞之助・抑子(共に同墓)の長男。弟の荒木貞亮は海軍少将。
1897(M30)陸軍士官学校卒業(陸士9期)。同期に阿部信行(首相・大将)、林仙之(大将:7-1-5)、本庄繁(大将:13-1-4)、南京事件の責任者として処刑された松井石根(大将)、皇道派の中心人物で荒木が葬儀委員長を務めた真崎甚三郎(大将)、大平善市(中将:6-1-5-15)、武川寿輔(少将:15-1-15)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいた。 1898陸軍歩兵少尉となり近衛歩兵第1聯隊附、1901陸軍中央幼年学校生徒隊附。翌年陸軍大学校入校するも、'04日露戦争勃発のため大学を中退し、近衛後備歩兵第1聯隊中隊長となる。 日露戦争では近衛後備混成旅団副官、'04.6~'05.11出征、途中で陸軍歩兵大尉に昇進。戦後は近衛歩兵第1聯隊附。
'06陸軍大学に復学、'07首席で卒業、参謀本部のロシア班として出仕。'09ロシア駐在、'12 ロシア大使館附陸軍武官補佐官。 '13(T3)参謀本部部員、'14陸軍省副官、陸軍大学校教官を歴任する。この年に第一次世界大戦が勃発し、翌'15.4ロシア出張、'15.6~'18.4ロシア軍従軍し、参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)などに就き、陸軍内のロシア通として知られる。 戦後は陸軍歩兵大佐に昇進し、関東都督府附となる。'18.8.3~'.19.7.24シベリア出兵に際してウラジオストク機関長、途中から浦塩派遣軍参謀を兼務して反革命軍を援助。 '19歩兵第23聯隊長、'20功四級金鵄勲章、'21参謀本部欧米課長、'23.3.17陸軍少将となり、歩兵第8旅団長、'24憲兵司令官、国本社理事、'25参謀本部第1部長、'27(S2)陸軍中将となる。
'28.8.10陸軍大学校長、'29.8.1第6師団長となる。この頃の荒木は皇道派(天皇親政の下での国家改造・昭和維新を目指した陸軍内の派閥。対抗する勢力を統制派と呼ぶ)の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。 「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で陸軍首脳は左遷させる予定であったが、教育総監であった武藤信義のはからいで、'31.8.1教育総監部本部長に栄転し東京に戻った。 同年.9.18柳条湖事件が発生した際、当時の外務大臣の幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより不拡大・局地解決の方針が決定された(9.24)。 若槻礼次郎内閣の不拡大方針を関東軍は無視し戦闘地域を拡大した(満州事変)。また国内でも不拡大方針を不服とした陸軍急進派は10月にクーデターを計画した十月事件(錦旗革命事件)を起こそうとしたが未遂で終わる。 この時、橋本欣五郎から皇道派のシンボルで右翼方面の人物交流を持っていた荒木を首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
12月内閣不一致で若槻内閣が総辞職、犬養毅が首相に就任(12.13)し荒木は陸軍大臣に就任した。参謀次長に真崎を据え、主の要職を自身の派閥で固め、過激思想の青年将校を東京の第一師団に集めた。 '32 五・一五事件で犬養が暗殺される。暗殺したのは国体を重んじる思想の影響を受けた海軍の青年将校であった。次の挙国一致内閣である斎藤實(7-1-2-16)内閣でも、皇統派の中心人物であるにも関わらず陸相に留任し、国内体制のファッショ的な改革と対ソ戦争の準備を推進した。 だが、次第に過激青年将校に自重を求める姿勢に人気は下降し、四面楚歌に追いやられ、自身が育て利用してきた過激青年将校たちを制御できなくなってきた。
'33.10.20陸軍大将となる。'34.1.23病気を理由に陸相を辞任し、軍事参議官。同年.4.29勲一等旭日大綬章。'35.10.26男爵に列せられる。'36(S11)2・26事件では反乱軍に同情的な態度をとり、事件後の3.6侍命、3.10予備役。'37.10.15内閣参議、'38.5.26第1次近衛内閣の文部大臣に就任。'39.1.5平沼内閣の文部大臣にも留任。国民精神総動員の委員長も務め、「皇道教育」の強化を前面に打ち出し、思想面の戦時体制づくりを推し進め、徹底した軍国主義教育を推進。これによりこの頃から軍部の大学・学園への弾圧が始まり、軍事教育が一層強制的となり、軍事訓練は強制的となった。この徹底姿勢に「日本のヒトラー」とも呼ばれた。'30.1.20内閣参議。
敗戦後、極東裁判でA級戦犯として終身刑を宣告されたが、'55病気で仮出所し、その後釈放された。健康回復後は、全国各地で公演や近現代史研究の史料調査を行う。 '66.10奈良県吉野郡十津川村にて同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、翌月、同村の宿泊先にて心臓発作を起こし逝去。享年89歳。従2位。
「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」と佐藤栄作首相への口述遺言を残している。 一周忌に際し、十津川村に佐藤栄作の揮毫による「荒木貞夫終焉之地碑」が建立され、遺族より同村に遺品の恩賜の軍刀が寄贈された。
<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<日本の名門1000家>
<内閣総理大臣ファイルなど>



*正面左側は和型「荒木家先祖代々霊位」、右側は五輪塔「荒木家/供養塔」。墓所右手に墓誌があり戒名は貞壽院殿釋錦翁居士。 墓所左手には大理石の墓石に「陸軍大将 男爵 荒木貞夫」の刻みを筆頭とした句、略歴が刻む。略歴には「昭和六年十二月十三日陸軍大臣、昭和十三年五月二十六日文部大臣、軍事参議官、奈良県十津川村没。 大将三年四月参謀本部特務機関長にて在露帝政ロシア皇帝より連隊長につかれ、東部戦線を歴戦。ロシア金鵄勲章(ウラジミール)を授る」と刻む。

*妻は荒木錦子(同墓)。長男は日産自動車に勤務し(株)荒木研究所社長の荒木貞發(同墓)、次男は陸軍中佐の護夫。娘は第1方面軍参謀(作戦主任)を務めた陸軍中佐の芝生英夫に嫁す。

*大将に昇進した荒木貞夫が男爵に叙されたのは、犬養・斎藤両内閣の陸相を務めた後の昭和10年の暮れ。華族となっても東京・幡ケ谷の自宅はみすぼらしく小さな二階屋のままだった。 長男である荒木貞發(1908-2007.3.10)の回想で以下のように言っている。父が華族に列せられた時、ロンドン大学を卒業し、日産自動車ロンドン事務所の駐在員だった。 「父がなぜ華族に列せられたのかよく分からない。父がニコライ二世の金塊を日本へ運び込んだと思われる旅には、カモフラージュのためか子供の私も父に呼ばれ同行した。 帰国後に父が偉くなったのは、参謀本部に金塊を預けたせいではないか、華族になったのもそのおかげではないかと思う」
<歴史読本 天皇家と華族など>

※石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。






●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!


毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず

・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?

・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!

情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。



●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造

5「秘」の性格と内容
モザイク理論の登場


ヒトラーはモザイクによってナチスドイツの国防能力を分析した人物を投獄したという。国防保安法も同様であった。同法第8条の情報に関する罪は、「或問題に関し新聞雑誌其の他の出版物に掲載されてゐるところをそのまま、又はこれを集めて綜合して結論を出し」た場合をも対象としていた(大竹武七郎『国防保安法』149ページ)。そういうことになれば、さしずめ私の分析作業なども弾圧の標的となるかもしれない。もちろん現在の法制では、直接に秘密保護法令違反の対象にはならない。だが、自衛隊の内部規定に、すでにモザイク理論が存在するとすれば、いつ全国民を拘束する法律になるかもしれない。
軍国主義の原型は、つねに軍隊内に生まれるのである。ともあれ、「個々の場合、秘密区分の指定を要しないもの」は、どれほ多く総合しても秘密にはならない。それは民主主義のイロハである。分析総合は学問と表現の自由にもとづき、自衛隊員をも含めて完全に保障されなければならないのである。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景


※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。

日本の原爆開発



核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?


”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!


科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』






●南京大虐殺

ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。


12月21日(福田さんへ) 火曜日
今日午前にもご要求がありましたので、以下に事実を列挙してご報告しますが、そのほとんどが、貴殿と私がお会いした後に、この目で見たもので、その他は、関わりのあった民衆が私に知らせ、私が綿密に調べたものです。
(1)今日午前兵士たちが我々の図書館から、7人捕まえていったが、その中には我々自身の職員が含まれている。その7人が罪を犯したとか(中国の)兵士だったとかは、言っていなかったが、拉致したのは強いて労務者にするのであって、こういう振る舞いは、貴殿らの布告を全く無視したものである。
(2)貴館のすぐ近くの頭条巷4号で、午後婦女が1人、兵士2人に強姦された。まさかこれは少数の警備兵が、秩序を回復しつつあることを意味するわけではあるまい。
(3)ちょうど今日私が貴殿と大使館で面談していた時に、私自身の家屋が4度目の略奪を受けた。本校の他の7つの建物も今日災難に遭い、いくつかの建物が何度も闖入された。
(4)兵士の大群が将校の指揮の下で、計画的に放火していて、数千もの民衆を帰るに家無くさせ、正常な生活と仕事とを回復する望みを失わせている。彼ら(日本兵)は、終日こういうことをやり続けていて、何おさまった形跡がない。



しゃべってから死ぬ!南京大虐殺


南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分


昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!

ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。
そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より





※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん



2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。

<戦争を知らない世代の必読本>
日本の歴史教育は、特に近現代史のそれはあまりにも問題がありすぎる。多くの日本人は、日中戦争や侵略について、ほとんど理解しないまま大人になっている。
このことが、隣人との友好の阻害要因となっている。残留孤児について知らない若者が多いだろう。この中島本を学生に教えるといい。歴史を教える教師の副読本にしたらいい。




発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」






●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!


夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第3部
追われるもの


野口傭員も自分だけの憶測を語っているだけらしいが、私は、これはかなり根拠がある説だと思った。
ソ連機の爆音が追いかけるように、忘れかけたころになると、決まって聞こえてくる。
情報を取りにいっていた尾藤属が帰ってきて、牡丹江方面の友軍は頑強に敵の進撃を阻止しているが、外蒙から入ってきた敵機動部隊は意外に足が早く、これまでの速度で来るとすると、14日には新京に到着するだろうから、それまでに新京を通過してしまわなければならないのだ、と言う。
「こんなに、もたもたしていて行けるのかなぁ」
「何やってんだ、いつまでも・・・・」
などと、雇員や古顔の傭員たちは不平がましくつぶやいていた。
「ま、当分は大丈夫さ。今の内に、よく睡眠をとっておくんだな。いつまた眠れんようになるか分からんぞ」
尾藤属が、そう言ってくれるので、私達はまた眠りについた。
ハルビンに着いたのは、深夜であったが、まだ眠気の抜け切らない私は、おぼろげに覚えていただけである。


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)
医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)


※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。


真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
細菌戦部隊731(前半)



ガン治療のウラ 7/8



「これを食べてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾



「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄2/6 ラジオ深夜便






●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏

明らかに、昭和天皇は、原爆投下を引き合いに出すことで、みずからの降伏決定を正当化しようとしていた。8月14日の詔書を伝えた玉音放送は、日本で最初に原爆の効果を正式かつ公式に承認するものとなった。天皇とその側近が実際にそのように考えていたかどうかは不明だが、3日後の8月17日、天皇はアジア、太平洋全域の戦場で戦闘を停止し武装解除を命じるために「陸海軍人に賜わりたる勅語」を渙発した。このときは、軍隊だけを対象にしたので、ソ連参戦と降伏決定の因果関係を強調し、原爆についての言及は避けている点が注意を引く。

 今や新に蘇国の参戦を見るに至り内外諸般の状勢上今後に於ける戦争の継続は徒(いたずら)に禍害を累加し遂に帝国存立の根底を失ふの虞(おそれ)なきにしもあらざるを察し帝国陸海軍の闘魂尚烈々たるものあるに拘らず光栄ある我国体護持の為朕はここに米英蘇並に重慶と和を媾(こう)ぜんとす。

 8月17日の陸海軍人に対する勅語は、あまり知られていない。そこではソ連参戦を降伏の唯一の理由とし、国体の護持をその目的としていた。最後まで―そして敗戦後も―偽善を装った昭和天皇は、その遅すぎた降伏についてふたつの異なる理由を挙げて正当化した。おそらく、いずれも真実であろう。



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」




●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

裕仁の外出

翌9月20日の朝刊は、ジョージア州出身のリチャード・ラッセル上院議員が、天皇を東条とともに戦争犯罪人として裁くことを上院で議決するよう提議したと報じた(80)。東久邇宮は、裕仁の許可のもと、ただちに第一生命館の新オフィスにいるマッカーサーに、丁重な電話をかけて、マッカーサーあるいは裕仁の求めがいつあろうと、自分は辞職の用意があると言った。そしてさらに、天皇は、自由主義と民主主義を鑑みて、宮中での隠遁生活から出て、公務における独自の役割をよりまっとうしたいとされていると、慎重ながらも表明した。マッカーサーは、天皇について、インタビューを受けたことも、国民へ直接語りかけたことも、電話の一本もかけたこともないという、新聞などからえた否定的なイメージを持っていた。そこでマッカーサーはこの東久邇の提案におおいに賛同した。だが彼は、注文を付け加える形で、裕仁のそうした変化は、日本政府の変革に向けた建設的行程の代わりとなるものであってはならない、と言い添えた(81)。





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