2016年7月29日金曜日

731=国家犯罪!!


●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!



日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア


井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)




寧波(ニンポー)細菌戦


闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)



細菌戦裁判(1997年~2007年)



終戦50周年731部隊



細菌戦被害の人々



(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)



暴かれる毒ガス戦の真実



(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


天皇は知っていた!!



澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!

『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。



石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。


これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。



次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。



石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。


石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)

東京初空襲・浙かん作戦

一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。




赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察





・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない

【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



*細菌戦被害の深刻性
腺ペスト(ヒトのペストの中で最も多く、80%~90%を占める。)や皮膚ペストは、ペストに感染したノミに噛まれて感染する。肺ペストは、ペスト患者の喀痰や飛沫が感染源になる。敗血ペストは主として腺ペストに続いて起こる二次性のものが多い。本件の被害地域のように人的なつながりが強い地域では、ペストはそのような社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。そして、ペストは本来齧歯類(げっしるい)の病気であることから、ヒト間の流行が始まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期的に渡って汚染する病気であるといえる。



※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より


小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。






・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足

死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!幽霊が出る!!

石井隊長の戦後3




筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ



「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

第2章  原子力ムラの源流
 
原爆症研究組織が平和利用支持の拠点に
「原爆症調査研究協議会」は、1953年11月、広島・長崎の被爆者の原爆後遺症の治療方法究明のために設置された連絡組纖だった。事務局は、広島と長崎にある米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)にそれぞれ支所(原子爆弾研究所)を置き、連携してぃた国立予防衛生研究所内にあり、米国の原爆の人体影響研究の補完を前提としていた。第五福龍丸事件以降は拡充され、臨床小委員会は国立東京第一病院や、東大医学部の若手の医師によって補強され、乗組貝の治療、放射性降下物による環境や農・水産物の汚染調査にあたっていた。

福島 南相馬の避難指示 大部分が解除




・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

■註
★1—玉木英彦宛書簡(1945年8月7日)中根良平・仁科雄一郎・
04
仁科浩二郎・矢崎裕二・江沢洋編 『仁科芳雄往復書簡集』 III、みすず書房、2007年、1142頁。
★2—仁科は1942年6月には海軍技術研究所(中佐伊藤庸二)から、1943年7月には陸軍航空本部から依頼を受けて、 核兵器開発に取り組んでいる。 そして後者の依頼をきっかけに始まったのが 「ニ」 号研究であった。
★3—菊池正士宛書簡(1941年10月4日)『仁科芳雄往復書簡集』II、1033頁。
★4—『仁科芳雄往復書簡集』III、1240頁。
★5—D.マッカーサー宛書簡(1945年12月12日)『仁科芳雄往復書簡集』III、1195頁。
★6—朝永は「仁科先生」と題した小文で「先生の見透しは時にはあまりに遠大すぎたこともある。特にわが国情においては、今少し近小の見透しであった方が実効があったと思われることもあった。 小さいサイクロトロンが出来たなら、 これをつかって小さいながらいろいろ有益な研究をすることもできただろうに、先生はそういう小成に安んずることを好まれない。…いつもさきへさきへと急がれる。」(玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄』みすず書房、1991年、4~5頁)と書いている。
★7—『仁科芳雄往復書簡集』III、1343~1344頁。
★8—吉川秀夫『科学は国境を越えて』三田出版会、1987年、134頁。★9—『仁科芳雄往復書簡集』III、1302頁。
★10—「原子力と平和」『仁科芳雄遺稿集 原子力と私』学風書院、1950年、104~105頁。
★11—同 前、102頁。
★12—『仁科芳雄往復書簡集』II、1450頁。
★13—日本学術会議編『日本学術会議25年史』1977年、15頁。★14—玉木英彦「科学研究所と仁科先生」朝永振一郎・玉木英彦編『仁科芳雄—伝記と回想』みすず書房、1952年、95頁。
★15—中曽根康弘『天地有情—五十年の戦後政治を語る』文芸春秋、1996年、167頁。
★16—『天地有情—五十年の戦後政治を語る』168~171頁。
★17—同 前、186頁。
★18—伏見康治『時代の証言』同文書院、1994年、271頁。
★19—門上登志夫『実録関西原子炉物語』日本輿論社、1964年。
★20—熊取町教育委員会『「京都大学研究用原子炉」の誕生』(熊取町史紀要第4号) 1996年、 17頁。



※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。


※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



開示された文書「何で黒塗り?」



原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)



放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書









●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!


・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」


毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ



・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より


・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?


(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?


死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件



医学者とは1




松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」と書かれている。

自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。

・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回 
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。






※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!


日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)


国会答弁書

・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!

日本軍の毒ガス被害



昭和天皇の“沖縄メッセージ”




●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良


8月24日(月)
KTCホテル ⇒ ビドー孤墳墓 ⇒ 抗日烈士墓 ⇒ 昼食 ⇒ イポー市育才中学
⇒ 洞窟元日本軍武器庫 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 首がさらされたロータリー ⇒ シビル・カシガスさんのお墓 ⇒
夕食 ⇒ バスターミナル⇒ ビドー

11:50
次は抗日烈士之墓へ向かいます。相変わらず道は酷く右往左往しながら、どこをどう通っているのか解らない。地元の人のみが知る道であろう。

12:20
そんなパームヤシ園の中、突如現れたのが、抗日烈士之墓でした。文字はだいぶ薄れていてほとんど読むことが出来ない。こちらは簡素にお供え物・ろうそく・お線香を供え、皆で三礼し手を合わせて黙祷しました。事件の詳細については知り得ませんでした。









●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。



西園寺 公一(さいおんじ きんかず)

明治39年(1906年)11月1日 - 平成5年(1993年)4月22日)86歳没
日本の政治家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事など歴任した。

生い立ち[編集]
明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(実父は旧長州藩主で・公爵毛利元徳)で、母は公望の娘・新である。
学習院初等科を経て、1924年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、朱牟田夏雄(東大名誉教授)、春山泰雄(元サッカー日本代表)などがいた。その後、イギリスのオックスフォード大学へ留学。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。昭和5年(1930年)、オックスフォード大学を卒業した。
戦前[編集]
1931年に日本へ帰国。父八郎から宮内省入りを勧められたが頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けて失敗。「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」だったのが原因だったが、これを聞いた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう」と外務省の官僚主義を嘆いた[1]。外務省嘱託職員を務めていたが、有資格者ではなかったため冷遇されて辞職し、1936年にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任。
同年7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦の誘いにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生尾崎秀実だった。尾崎とは帰路も同室になっている[2]。
中国の秘密結社について研究しており、中国における共産主義運動に関心を持っていた。このため、のちにゾルゲ事件に連座して逮捕された際にも、中国共産党員との交渉ルート確保のために執行猶予で保釈された可能性があると言う意見もある[3]。
1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。
昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のための努力を行った。この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、スターリンやヒトラーやムッソリーニとも会っている。昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、日米交渉について、陸海軍の意見調整を図る、という任務が与えられた。
逮捕[編集]
同年10月に風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎秀実の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎秀実とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていた上に、それ以外にも立場を利用して得た国家機密を流していたことから自らもスパイ容疑で逮捕され、その後裁判で禁錮1年6月、執行猶予2年の判決を受けた。このため嫡男としての爵位継承権を剥奪され、1946年に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲ると共に、西園寺家の相続権を放棄することとなった。
戦後[編集]
『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めた。1947年には参議院議員選挙に出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は参院で欠席の記録を作り、議員としては見るべき活動ができず、2回目の参院選には落選。昭和29年(1954年)には京都市長選挙に出馬して落選する。
1955年にはウィーンで開かれた世界平和評議会に日本代表として出席し、そのままウィーンの評議会の本部に書記として単身滞在、かの地で3年間を過ごす。この間、1957年に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる[4]。

ゾルゲ

尾崎秀実

中華人民共和国への移住と追放[編集]
日本に帰国してから間もなく、家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった[5]。
昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の昭和42年(1967年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」、「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。
文化大革命による混乱の中でその出自と「実権派」と親しいとされた立場について強い非難を受けたことから、1970年8月に12年7ヶ月ぶりに日本へ帰国。事実上の追放であった。以後国内で言論活動を行い、中国共産党や毛沢東、江青等を賞賛。自らが文化大革命の中で中華人民共和国を事実上追放されたにもかかわらず、文化大革命を礼賛する言動を続けた。既に文化大革命中より多方面から批判を浴びていたが、文化大革命が終結しその実情が暴かれ、さらに中華人民共和国内で文化大革命に対する批判がされた後は言論人としての立場を失った(後述)。
晩年[編集]
かつての文化大革命礼賛者はその後新興宗教やカルト的団体に接近する者が少なくなかったが[6]、西園寺も晩年は子息とともに創価学会に傾倒。入会こそしなかったものの、外部の理解者の立場にあった[7][8]。 中華人民共和国寄りの創価学会に賛同しなお影響力を誇示しようとしていたようであるが、一方の創価学会にとって、同国とのかかわりが深く名門の末裔でもある西園寺父子は組織の「権威付け」には重宝な人物であった[9]。
平成5年(1993年)4月22日、老衰のため86歳にて死去。






●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!

毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず


自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!




お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開



・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?

そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?


・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!


情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!





●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より

第4章 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密



2 機密保護立法の動向

50年代の立法蠢動

大綱は、60年安保改定交渉過程で アメリカ側の要求もあって具体化への動きをみせた。59年秋、左藤防衛庁長官が、軍事・外交機密の保護を目的とした「国家利益保護法」的な特別法を制定する意向を固めたと伝えられたし、60年3月には赤城防衛庁長官が、5年後には機密保護法が必要になるかもしれないと参院予算委で表明している。また、このころ刑法改正作業のなかで、機密探知罪新設のたくらみが進んだ。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景



※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。

日本の原爆開発









核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?



”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』







●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。




ティムパレイへの書簡(1938年3月3日)
親愛なるティムパレイ様:

この手紙は上海で書いているものです。長いこと努力して、私にやっと期限10日の軍事通行証がもらえたのは、国際救援委員会と他の団体の代表としてであって、同時に家庭的な理由でもありました。
 皆さん方を脅かしたいわけではなく、私はただ皆さん方に一歩突っ込んだ音信を提供することで、夏に起きるかも知れない震駭(しんがい)すべき事態に備えていただきたいのです。言い出している問題は、強い反応が得られるとは限りませんが、私たちはその可能性に直面しなければならないのです。
 ここで今H.J.ティムパレイ氏の書いた書物を、イギリスとアメリカで出版しようと一生懸命準備していますが、著者は『マンチェスターガーディアン』の資質の優れた記者で、書名は『日本軍の中国での暴虐』(The Japanese Terror in China)となりそうです。ティムパレイ氏は品性の高尚な報道活動家で北平[Peiping]や上海のキリスト教指導者たちと長いこと密接な関係を保っています。彼は当地の救済団体から入手した中国の戦争の実態を陳述した文献を、大量に保存しています。それらの資料は公正で建設的な方式で公にされたものです。






しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。

したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より



軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)

お粗末な日本政府の情報公開



※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん


2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。




<訥々とつづる背後は>
 418ページに及ぶ16年の記録は、淡々と、かつ訥々とつづっている。そこに、伝えようとしても伝えられない悲しい思い出が読み取れる。
 人生は山あり谷ありである。順風満帆などない、といってもいい。苦悩の連続といってもいい。一見楽し気にふるまっている人でも、一歩踏み込むと、そこに悲しい事実に泣いていることも珍しくない。

 筆者も近年、妻を含めて3人の親しい友を失ってしまった。重い病気が生きる力を奪ってしまったのだ。医療事故で息子を奪われた妻は、その心労で重い病につぶされてしまった。
 筆者の日中友好活動に支援してくれた人権派弁護士も、そのまじめさから来る心労で病に倒れてしまった。
 幸せを目の前にしながら、やくざの牙にかまれ、逃げ出そうとして食い殺されてしまった悲劇の友もいた。戦争遺児である。これの徹底追及を月刊誌「財界にっぽん」で開始した。






発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」







●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは7




ガン治療のウラ 8/8




「輸血・点滴は受けてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾




「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄5/6 ラジオ深夜便





●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制

Ⅵ 
それにもかかわらず、共産主義者や少数の改革論者という注目すべき例外はともかく、日本のほとんどの政治家たちはいまだに君主制に畏敬の念を抱いていた。彼らの旧態依然とした態度は、アメリカ側の憲法草案における民主主義精神と基本的に対立するものであった。保守主義者、社会主義者、自由主義者などほとんどすべての政治家たちの主な関心は『国体』の護持に注がれていた。彼らの考えによれば、国内の危機に際しては、政治的に力のある君主が必要だったのである。世論が君主制廃止の支持に向かうのを防ぐためには、わずかな修正は必要かもしれない。天皇の権力のある部分は取り除かれてしまうかもしれないが、しかし、すべてが奪われてはならなかった。彼らにしてみれば、とくに、天皇が「単なる飾り物」になってはならなかったのである。
 このような重大局面にあって、天皇は、社会の根本的な変革のために臣民たちが何を望んでいるか、推し量ることができなかった。例えば、1946年2月12日、天皇は侍従次長の木下道雄に対して、「松本は自己の在任中に憲法改正を終了したき意思の如し。これは幣原にも云おうと思うが、左程急がずとも改正の意思を表示し置けば足る」と述べている。
 2月13日に外務省でアメリカ側のモデル憲法を受け取った吉田外相と松本国務相は衝撃を受けた。彼らは明治憲法下での「国体」を護持しようと努め、天皇が権力と権威を兼ね備えて君臨し統治することが許されないかぎり、天皇を利用することはできないだろうと考えていた。続く数週間の間に、幣原内閣の大部分の閣僚たちは、この重大な点について考えを
改めた。進歩的なアメリカ草案が、少なくとも皇位の世襲原則を従前のままとしており、その継承についても保障していたからである。このような君主制にとって危機的な状況にあって、裕仁だけが躊躇していた。


※アメリカは、戦争犯罪を裁くよりも、天皇家の莫大な財産に目が行っていたのだろう。
日本に対する戦争の最も頼りになる賠償交渉の相手を殺すわけにはいかなかった??
それと日本を、どのように無事に占領するか?が大きな問題だった??
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」







●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

敗戦
(その5)



まやかし裁判

 マッカーサーの良心の呵責を肩代わりした検察官は、ジョセフ・ベリー・キーナンという、元副検事総長の弁護士政治家だった。1930年代初め、キーナンは、マシンガン・ケリーを刑務所に送り、リンドバーグ法(訳注)を草案したことで名を売った。しかし、ワシントンでの政略と酒と賭け事の十年間は、その名声を犠牲にしたものだった。まだ在米中、彼は友人の一人より、「派手で攻撃的だが、不親切ではない男」と形容されていた。また彼の敵は、法廷では常に自分勝手に事実を曲げ、彼の言葉は往々にして不正確かつ独立宣言演説調に満ち、彼の答弁、ことに午後の法廷のそれでは、時に鈍くぼやけている、と彼を指摘した。

(訳注) 初の大西洋無着陸単独横断飛行に成功したチャールズ・リンドバーグの愛児が誘拐される事件(1932年)が発生した際、複数州にまたがる誘拐犯行は連邦犯罪であり、自治体警察ではなく連邦捜査局管轄と定めるリンドバーグ法が成立した。


※ソ連がアメリカの政策に驚くほど従順だったのは、戦時中、アメリカから多大な援助を受けて、ソ連が立ち直った経緯があったからではないのか??
「ナチスドイツの侵略でそれまで約2000万人の国民が死に崩壊寸前だったソ連だが、アメリカはヨーロッパと太平洋の2正面で戦いながら、ソ連にもトラック60万台、戦車1万3000台、航空機6700機、砲弾2000万発、小銃弾9億発など莫大な援助をし、ソ連を立ち直らせた。」(竹内治一著『赤い夕陽と黒い大地』より)


昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に















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