2017年8月31日木曜日

高知の旅 幸徳秋水を訪ねて

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8月21日(水)
幸徳秋水を訪ねて
四万十市(旧中村市)

幸徳秋水




ウキペディアより
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
本名は、幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
経歴
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。尚、妻師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
9歳の時、儒学者・木戸明の修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現:高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。 1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。


新聞記者を目指し、『自由新聞』(板垣退助社長。小泉策太郎と親友に)等に勤めた。同年に発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、所謂壮士芝居の先駆となる。その時の演目の一つ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる[1]。
1898年(明治31年)より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。萬朝報は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。
1899年(明治32年)末には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いた為「赤新聞」とも呼ばれた。
秋水は記者の傍ら国民英学会等で学び、1900年(明治33年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党が曾ての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、『萬朝報』に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。


また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を『萬朝報』で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む。(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山県有朋の恨みを買い、これが後の大逆事件につながったとする説がある[2]。
1901年(明治34年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。又、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである(正造が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけが断らずに書いたといわれる)[3]。




1902年(明治35年)、前年に死去した中江兆民を追悼する『兆民先生』を発表。
1903年(明治36年)、日露戦争開戦以前は戦争反対の論調の新聞もあったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『萬朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させた為、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎と共に発行元の朝報社を退社する[4]。秋水と堺は非戦論を訴え続ける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。この頃、『萬朝報』で同僚だった斉藤緑雨が病で貧窮した為、「週刊・平民新聞」に、緑雨の為に「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした[5]。緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという[5]。
1904年(明治37年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。
1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。アメリカに亡命していたロシア人アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。翌1906年4月18日サンフランシスコ地震を体験。その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る[6]。同年6月23日には地震の影響から帰国の途に就き、同年6月28日には帰国歓迎会が開かれた。この時に秋水はゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を提唱。1906年(明治39年)、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもと結党が認められた日本社会党において「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対し、党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜や田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。のち秋水は社会革命党を岩佐作太郎と結成。



1909年(明治42年)、『自由思想』発刊、即日発禁。
1910年(明治43年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕。秋水は湯河原の「天野屋」に小泉策太郎に勧められて来ており、愛人の管野須賀子の湯治を兼ねて宿泊中であった。
獄中で、歴史的存在としてのイエス・キリストを否定する『基督抹殺論』を脱稿。イエス・キリストを天皇のメタファーとして、天皇を排する主張をしたとも言われる。内容は神智学協会のアニー・ベサントのキリスト教論に合致する部分が大きく、ベサントの影響が指摘されている。これが遺稿となった。[7]
翌年、有罪・死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。こうした当局の対応には、当時すでに、国内外で知識人層の中から批判があった。社会主義者の一掃を図る当局は事件発覚を奇貨として、事件への関与が薄く大逆罪に該当しない秋水らに対し、罪を捏造して処刑した。刑死者12名のうち、実際に皇族暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があるのは、管野須賀子、新村忠雄、宮下太吉、古河力作の4名のみと見られた。秋水は事件当時、首謀者の1人に名指しされた管野と平民社内で同棲中であり、暗殺計画の存在を知っていた可能性がないわけではないが、そもそも管野は肺病で長く療養中であり、彼女が首謀者であったという検察の主張にはかなり無理があった。
秋水は、獄中に面会に訪れた妻千代子の手弁当に手を全くつけないほど、関係は冷え切っていたが、墓は、高知県四万十市の正福寺のその妻千代子の墓と隣接してある。碑銘は小泉策太郎(小泉三申)。 高知地方検察庁、高知地方裁判所の裏手にあり、戦前は墓碑に鉄格子がはまっていた。刑死後も猶、当局に監視されていた[8]。
大逆事件以後[編集]
徳富蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、1911年(明治44年)1月に幸徳らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。
大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。
また、秋水が法廷で「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった[9]。 帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。
また翌1912年(明治45年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表し、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[10]。
評価[編集]
新たな資料などが発見された1960年代以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(濡れ衣)の典型例であることが確実となった。批評家柄谷行人や浅田彰、すが秀実、鴻英良らは、大逆事件を日本帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の福田和也が愛国者として秋水を評価するものがある[11]。 また代表作『帝国主義』はホブソンやレーニンらの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。平成20年(2008年)、クリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によって『帝国主義』のフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle" (Paris, CNRS editions)がなされるなど、近年海外でも再検討されている。
平成13年(2000年)、秋水の出生地である、当時の中村市議会は、「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。


















大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん[注 1])
1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕、起訴、死刑判決を下した事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。

概要

大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、
1910年(1911年) - 幸徳事件(検察によるフレームアップがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もある)
1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)
1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる)
1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)
の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。
虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく大逆罪を犯す犯意程度で有罪とされた。

中江兆民生誕の地と兆民通り

「幸徳秋水」の展示(四万十市)田中全元四万十市長の解説




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