2017年12月7日木曜日

「衛生学校記事 16巻1号」より「泥寧悪路 と の戦い」(近喰秀太)


南京栄1844部隊の近喰秀太大佐は一体泥道の中を何を運んだのであろうか?

ろ水自動車とあるが、細菌戦に関係するもは無かったのだろうか??

*近喰秀大   (当時)栄1644部隊1科勤務
(戦後)防衛大学校教官で衛生課長
第1科    病理研究   特別作業(病原菌の効果試験つまり人体実験)
7号棟の最上階にマルタな収容所があった
課長  近喰秀大中佐
人数  120-130名 軍属約15名(軍画兵として1科に勤務した石田甚太郎証言)

三、細菌戦による崇山村のペスト被害

1、義烏県城のペストは、隣の東陽市(当時東陽県)に伝播して四一年一〇月から翌四二年四月までに、少なくとも一一三名の死者を出した。さらに四一年中に始まった義烏の農村地区の流行は四二年に本格化し、佛堂、蘇渓、廿三里、平疇、青口、前洪、井頭山、官塘下、崇山などの鎮や村落に波及、四四年四月に最後の死者が出るまで、二年八カ月にわたって流行が続いた。義烏県城と県城周辺の農村の被害を含めると、義烏県全体のペストの死者は、九〇〇名を越える。なかでも最大の被害に見舞われたのが、江湾郷の崇山村であった(次頁の地図参照)。 崇山村の住宅は極度に密集している。同村のペストは、四二年一〇月から爆発的に流行した。崇山村のペスト患者は、村はずれの林山寺や、あるいは同じく村はずれにある碑塘殿などに収容されたが、国民政府の防疫隊は全く活動できなかった。流行が終息する翌四三年一月までに死者の総計は三九六名にのぼった。これは当時の崇山村の人口一二〇〇人の約三分の一に相当する(次々頁の地図参照)。

前記第一章の被害者番号69の王茂雲から137の王小弟は、このペスト流行で死亡したものである。

2、日本軍は、崇山村で流行した伝染病がペストであることを、その流行の当時、確定していた。

四二年五月に始まった浙〓作戦により、日本軍は義烏を占領し、九月二日には第一三軍二二師団八六連隊の本部を県城内に設置した。また浙〓作戦に随行し細菌戦を展開した一六四四部隊の隊員十数名も義烏に駐屯していた。

一一月初旬、右の八六連隊員と一六四四部隊員の調査班が、ペスト流行中の崇山村へ数次にわたり入村し「腺ペスト疑似症」と確認した。ついで近喰秀太大尉ほかの一六四四部隊の調査班が、埋葬されたばかりのペスト感染者の遺体を掘り出し、その肝臓から顕微鏡標本を作製してペスト菌を発見した。さらに、一一月一六日、義烏でペスト調査にあたっていた南京の一六四四部隊の調査班が、正式にペストであると断定した。

日本軍の崇山ペスト調査の目的は、二つあった。一つは自軍へのペスト波及を防ぐため、もう一つはペスト感染者を生きた実験材料とすることである。

前者の目的は、最終的に崇山村村民の家屋や財産を焼却することで達せられた。

日本軍は、一一月一六日、ペストの断定を行ったその日に崇山村の家屋焼却を決定、二日後の一八日、兵員を派遣して同村を包囲し、火を放って二〇〇余戸、四〇〇余室を焼却した。

後者の目的は崇山村のペスト感染者の生体解剖を行うことで達せられた。ペスト菌種を確認し、人体を通して強力となった強毒菌を取り出すため、崇山村の中心から二キロ離れ、隔離施設とされた林山寺で、一六四四部隊員たちにより生体解剖が行われたのである。


泥寧悪路 と の戦い
日華事変 ・大陸戦線に参加して
近 喰 秀 大
1938年 (昭和13年) 10月~1939年2月の間、第106師団は陽新 (湖北省) 周
辺地域に駐とんし、次期作戦に備えて暫し休養、 戦力の維持増強につとめていた。 そこへ第11軍方面司令官より南昌 (江西省) 攻略のための準備命令が下達され、 師団長は急拠隷下部隊に九江経由徳安への集結を下命した。 とき恰も連日惡天候であったが、 直轄部隊も支援任務に服すべく目的地に向つて勇躍前進を開始することになった。
それが泥寧悪路との戦いの第一歩になろうとは神ならぬ身のつゆ知る由もなかった。
各部隊はX 日、未明から激しい風雨の中を各梯隊区分に従い順次出発して行った。防疫給水隊の主力は人馬共々所要の衛生資材を携行し、師団先遣部隊と行動を共にしていた。
私 (当時軍医中尉) は、 残余の防疫給水部隊員66名と各種の車両 (乗用車、偵察用側車、ろ水自動車、給水・搬水車、病原検索車、修理補給車等計22両) を指揮して最後の梯隊に加わっていた。しかしながら先遣部隊より第1梯隊、第2梯隊……と我が最終梯隊である第12梯隊の出発までの時間間隔は一昼夜以上もあった。
連日の降雨に加え、各梯隊のおびただしい車両の運行によって、ただでさえ整備不良な道路は次第に泥道と化して行つた。
路面軟弱で狭隘な道路、しかも排水は悪く、その両側はうっ蒼たる樹木に覆われて昼なお暗い悪条件、道は日を追って泥濘化して、シンガリのわが梯隊は出発後僅か16粁の地点で早くも前進困難な状態に陥ってしまった。他部隊の車両を含めて合計72両、 蜿蜒長蛇の列をつくり恰も冠水した陸の孤島に.浮かぶが如き様相は、筆舌につくし難く、今も脳裡から離れることがない。
◇ ◇
出発第2日目、第2梯隊に属していたN作戦参謀は、 6輪車のわがろ水自動車のみが山麓の側面を辛うじながらも前進可能な力をもっていることを知り、 ぬかるみに足をとられ悪戦苦闘1時間、徒歩でわが梯隊に逆戻りし、作戦に間に合わせるためにと2両のうちの1両のろ水自動車の借用を要請してきた。私は同車と連転手、助手の軍属、それに下士官、兵の計5名を随行させることにした。
第3日目、前進の術を失い、その見通しもたたぬ挫折した車両に、これ以上時間の浪費ができぬと判断した他部隊の主力は、 一部の兵員を残したまま徒歩によって前進して行った。
出発に先立ち、 私はN参謀から先任将校の立場上、すぺての車両部隊を合わせ指揮するよう予め命ぜられていたので、 混乱を収拾すべく直ちに残余の各部隊の責任者を集合せしめ、一致団結、相互に協力して速やかにこの泥海悪路を離脱すべくその決意を披歴した。
第4日目以降の2日間は、 山麓斜面の高所から10数名の人力をもってロー プで牽引してみた。しかしその結果は1日に2~3米進んだにすぎなかった。
それでも「車が動いた」といって小踊り して喜び合ったものである。
次の3~4日間は、木を倒し、それを沈んだ車輪の下に枕木のように並べて何百回となく牽引を繰り返してみたが、枕木は斜めにめりこみ、車輪は徒らに空転するのみで不成功に終わった。
そこで方法を変えて筏をつくり、その上に車両をのせて牽引してみたが、水と泥の違い、1日数米進むだけで船のような具合にはいかなかった。
勿論、各々が携行しているツルハシ、シャぺル、ロープ、ジャッキ、チェン、鉄棒、鉄板等利用できるものはすべて使用したが足掻けば足掻くほど亀の子のように没するのみで、むなしく泥濘の中へ消えて行くのであった。
非情の雨が追い打ちをかけ、泥濘は益々深みを增して大腿部にも達し、 動くことすらままならず昼夜兼行、全身泥まみれになって全力をもって努力したが、最早人事の及ばぬ状態となり、これ以上車両と共に前進を続けることは 全く不可能になってしまった。
その頃、衛生大隊、野戦病院の先遣隊等が、われわれの情景を痛いよ う
にみつめながら山麓の道なき樹林を縫つて行進して行った。 その長い隊列がが途絶えたかと思うと、輜重隊が喘ぎ喘ぎながらも軍馬に曳かせた小行李搭載車を押して行く。皮肉なことに馬の方が馬力を発揮する。
小一時間もたった頃、 先に通過して行った輜重隊のK大尉が戻って来て、'“早く車両の引き上げに成功し、本隊に追従できるように”といって牽引用のロープ、 チェン数本をおいて再び前進して行った。異国の戦場に咲く戦友愛、 後姿を見送る私の目には感謝の涙が溢れ、知らず知らずの間に煩を伝っていた。
車両は兵器である。 その車両を放棄することは許されない。 そしていつまでもこの果てることを知らない泥濘悪路との戦いを続けていたら肝心の戦闘に参加できなくなってしまう。残された全将兵は渾身の力をふりしぼって徒労ともいえる脱出作戦に没頭した。
一方、事態の推移を判断した私は、徳安に集結中の所属部隊長に電文を起
案し、次のように打電した。
「連日の降雨により、 道路は最悪の泥濘と化し、 車両部隊の前進不可能。 今回の作戦に参加できぬことを残念に思う。 しかし一切を捨てず全将兵全力を投入して離脱に努力中。遥かに部隊長以下のご健闘, ご活躍と武運長久を祈る」と。

その翌日、 即ち出発10日目は珍しく晴天に恵まれた。早朝時、西方より偵察機が低空で飛来し、通信筒を投下して東方に去つた。通信文の内容は、「防給車両指揮官は、直ちに陽新旧師団司令部に行き、H参謀に事態の詳細を報告し、善後策をとるべし」であった。
早速S下士官を連れ山沿いの近道を通り約4時間がかりで陽新に到着し、H参謀にこれまでの経過と現状にっいて報告した。
その結果、陸路の行動を断念し、河川船舶輸送により九江に前進する、との決断が下された。あとで判つたことだが、偵察機の乗員はH参謀であった。そして、 空から俯瞰すると絶体絶命といおうか、山間の泥水に浮かぶ泥舟のようであった、と述懷されていた。
出発以来数えて18日目、作戦変更に伴う河川の接近経路の偵察を開始し、至近ルートを発見したが、地形は錯雑でとても道路と呼べるものではなぃ。しかし通らねばならぬ、通さねばならない。樹木を伐採し障碍物を取除き、道なきかたに道をつける工兵まがいの重作業。漸く拓いた道らしきところへ一車両づつ牽引し、
片や後押しをして引きずり上げた。
1日の運行速度は200~300米。現在の都心のラッシュの比ではない。遅々とした歩みを繰り返し約1週間後に河川沿岸に到着した。いや、辿りついたというのが適切な表現だろう。その瞬間兵隊は互いに肩を抱き、踊り上がって歓喜した。
思えば長い長い泥濘悪路との戦いであった。難行であった。苦行でもあった。
私はこれまでにも幾多の困難にも遭遇してきたが、これほど強烈な印象はない。今なら事前の綿密な計画、偵察そして図戦などを経て事が運ばれるであろう。また道もよく、車の性能その他科学も長足に進歩しているので、現代に照らすことは無理があるかも知れない。
しかし、この40年前の出来事の中から各人なりに「何か」をとらえて戴ければ望外の喜びである。
(防衛大学校衛生課技官)



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