2015年6月5日金曜日

陸軍軍医学校50周年記念祝典


陸軍軍医学校50周年記念祝典


1938(昭和11)年、石井部隊の正式発足とともに、石井は兼職であった陸軍兵器本廠付が本務となった。石井が部隊長に就任した前後に、多くの軍医が石井と同じように人目に立たないよう、大臣官房付とか、工兵第20連隊付などの名目で部隊に集められた。また、医者として軍に勤務していても、軍属であればその「団報」の記事では分からない。石井部隊にはそうした軍属のまま医学者として参加した人間も多い。
目立たぬよう進められた隊員集めも、その年の秋、10月頃までには完了したようである。実際、先に引用した榊の「サンデー毎日」への寄稿でも、「1936年の秋10月」に最初の本格的な会議が行われた事が述べられている。
その他にも、発足の年の秋には石井部隊の活動が軌道に乗り、さらには期待されていた事を示す証拠がある。それはこの年(昭和11年)の11月7日の陸軍軍医学校創立50周年記念日でのことである。その日、50周年を祝う行事がいろいろと行われたが、その1つに石井部隊による飛行機からの物資投下の実演があった。その内容及び実際について、「陸軍軍医団雑誌」第283号に石井四郎は次のように書いている。

陸軍軍医学校50周年記念祝典当日の空中作業記事
石井部隊 部隊長 石井四郎
1、 昭和11年11月7日陸軍軍医学校、創立50周年を迎え盛大なる記念式典を挙行せらるるに当たり・・・
3、7日祝典当日朝来より曇天にして、天候視界悪しく時々雨さえ催せるも、午前9時45分所沢飛行場を離陸正10時に学校上空に達す。まず投下位置決定のため、高度200mにて1回学校上空を旋回飛行後第1、第2、第3回と衛生材料の空中投下作業を敢行せり。・・・・・

第1回落下物の中には「ウイスキー」大瓶1本(1400g)が含まれていた。・・・
またこの記事の数ページ前には、「祝賀飛行を仰ぐ来賓」という説明の付いた写真も掲載されている。(4宮殿下)来賓とおぼしき人たちがそれぞれ空を見上げているところが写されている。
高度200mのところから落下傘に吊るした籠を落とす。籠の中には薬品や包帯が入れられていた。これだけならば当たり前の話である。しかし石井部隊では後年、ペスト菌に感染したネズミそしてそれに付着した同じくペスト菌を保有しているノミを籠に入れて、飛行機から落下する実験も行われる。この祝典の頃、すでにこうした具体的な方法が考えられていたかどうかは分からない。
石井四郎が正式に発足した石井部隊の隊長に専念する事を示唆した「軍医団雑誌」の第280号の「団報」欄には、もう1つ注目すべき事を伝えている。それは石井部隊の正式発足と前後して、北野政次2等軍医正が満州医大の教授に転出した、というニュースである。
石井と前後して北野が満州に赴任したのは、陸軍軍医学校や陸軍省医務局の上層部が、石井の医学者としての能力に不安を抱いていたことを示していると思える。その点を補うために、北野が派遣されたと推測できる。

以上p55~58「消えた細菌戦部隊」常石敬一著より




●天皇と731の関係は?

・天皇は生物兵器に関心があった。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著(p229)

1925年9月赤坂御所に生物学研究所設置「昭和天皇」p61ハーバード・ピックス著(講談社)

1925年、ジュネーブ協定締結・・・毒ガスの禁止だけでなく、ポーランド代表の提案を入れ、細菌兵器の使用禁止もうたっている。・・日本とアメリカは批准しなかった。石井四郎、遠藤三郎に細菌戦の重要性を主張!!「医学者たちの組織犯罪」p60 常石敬一著より(朝日新聞社)

天皇の神格化1928(昭和3)年即位の礼(天皇:大元帥27歳)(約1年間かけて行われ、最後は大嘗祭)裕仁は現人神(あらひとがみ)になる。
27歳の若さで現人神?頭の中では大日本帝国の夢が膨らんでいたのであろうか?
昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼


大日本国憲法では
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
となっている。天皇が神で神聖であり、元首であり、陸海軍に責任を持つことになっている。

ところが戦後補償裁判では「国家無答責」の法理によって、国・天皇の責任が一切追及されない。
何で、戦後も旧憲法が生きているのか?
(参考)国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとでは官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。

1925年・・・治安維持法制定(国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。)


・1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式・・・ほぼ1年かけて現人神・大元帥になった。(27歳)
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒素生ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎてとても実行できないと言う。・・「昭和天皇」p170ハーバード・ピックス著(講談社)
・1929(昭和4)年、昭和天皇、陸軍軍医学校視察、どのような目的があったのか?(軍医学校の中に1932年に防疫研究室が設置され、33年に規模を拡大。多くの京大や東大の教授達が嘱託として働き、731部隊などにいろいろな指令を出した。)「陸軍軍医学校50年史」より
軍刀には不思議な力がある?



・小泉元中将と助教授を結び付ける唯一の“接点”も細菌戦部隊だった。小泉は陸軍省医務局長時代、細菌戦準備を提唱した石井四郎元中将の最もよき理解者の1人であったし、後援者でもあった。小泉元中将の支援なくして日本の細菌戦部隊はありえなかったと言ってもよい。
その細菌戦部隊とかかわり、そこで人体実験を強いられたのが、自殺した助教授である。彼は医学者としては、手を染めてはならない人体実験を繰り返し、その良心の呵責から死を選んだのである。
小泉元中将を、日本の細菌戦を推進し、大きな流れを作った人物と位置づければ、助教授はその流れに巻き込まれ、のみ込まれた1人といえよう。・・・
(『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』常石敬一・朝野富三著より)
小泉親彦・・・1932年(昭和7年)、近衛師団軍医部長に就任。1933年、陸軍軍医学校校長。1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。
1945年(昭和20年)、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。
軍医時代の小泉の大きな仕事
1、厚生省設置の推進  2、日本における毒ガス戦の基礎を築く  3、防疫研究室新設に協力し、この近衛師団軍医部長を兼務していた時、近衛師団の土地約5000坪の土地を「譲与」した。(1933年10月、新たな防疫研究室完成)
・厚生省とは国民の健康を増進するために作られたのではなく、強い兵隊を作るために作られたのか?
・毒ガスの人体実験は平房の731部隊の施設で516部隊と合同で行った。
・陸軍軍医学校と防疫研究室は、地下道でつながり、その地下道には、コンクリート製の水槽があって、ホルマリンの中に死体が、15、6体浮かんでいた。(『証言731石井部隊』郡司陽子著)(731部隊で、生体解剖したものを飛行機で研究室まで運んだのか?)
小泉親彦(こいずみちかひこ)

1928年~30年 石井ヨーロッパ視察、1933年背陰河(はいいんが)に秘密裏に東郷部隊設置
1933年防疫研究室完成(731部隊の司令塔)、1936年(陸軍軍医学校50周年)遂に防疫機関(731部隊)の新設をみるに至れり。(天皇の軍令に基く)
ここで、防疫研究室新設の理由として、欧米各国と比べ「我が国に之が対応施設なく」と述べられている。しかしすでに軍医学校にはこの研究室より規模も大きく、名称も似かよっている「防疫部」が設けられていたのである。対応施設云々こそ、細菌戦研究の研究室である事を、暗に認めたものであろう。この表現でも、一般に公開することを予定した文書においては、ぎりぎりの線であろう。・・・・・・
「同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢・・・・」の部分
満州の部隊は形式上関東軍に所属するが、東京の軍医学校と密接な連絡を取りながら、業務を行う、ということだろう。
(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より)
『陸軍軍医学校50年史』P184

防疫研究室『陸軍軍医学校50年史』より

731部隊全景(『続・悪魔の飽食』森村誠一著)

・4宮殿下、陸軍軍医学校50周年式典にご臨席・・・731部隊(細菌戦)・毒ガス戦にかける思いも強かったのでは?
閑院宮(かんいんのみや)・・・1931年~40年陸軍参謀総長
梨本宮・・・元帥、敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。1937年6月、対中戦争への突入を東条と協議するため満州を訪れたのは、他ならぬ梨本であった。この意味では彼は全8年に及ぶ地獄のような戦争の開始者であった。(「天皇の陰謀」(上)p201)
朝香宮・・・1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加。南京大虐殺に関与。
東久邇宮(ひがしくにのみや)・・・太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く

・4宮殿下陸軍軍医学校の50周年の式典に臨まれる。


陸軍軍医学校50周年記念行事について
細菌戦の予行演習?731部隊員増田薬剤官同乗。(夜の宴会:「よし、細菌戦で行こう!乾杯!」?

久邇宮(香淳皇后の父親)・・・生物学戦争についての情報を提供し続けた?

・永田鉄山・・・石井の特に細菌戦研究についての主張は、陸軍省や参謀本部において次第に支持を集めて行った。彼の意見を支持した人間のうち最も有力な人物が、1931年当時陸軍省軍務局軍事課長(陸軍中佐)で、1934年には実質的に最も力を持っていた局長である軍務局長(陸軍少将)に就任する永田鉄山だった。ちなみに、後に石井部隊が創設されてから、部隊長の石井の部屋には永田鉄山の胸像が飾られていたという。国家総動員を唱えていた。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著)

・1937年(昭和12年)・・国民精神総動員【第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)年9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動。】「国体の本義」(神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。)
・1938年(昭和13年)・・国家総動員法発令【総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。】
・1941年(昭和16年)・・「臣民の道」7月の第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作である。欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。
戦陣訓発表 (生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名おめいを残すこと勿なかれ。)


1940年(昭和15年)皇紀2600年?に東京オリンピックを開催する予定だった。

道徳の強化、「日の丸」・「君が代」の強制、秘密保護法で隠す動き、軍事力強化、集団的自衛権を行使可能にする流れは
何か昔の動きと似ていませんか?

オリンピックよりも、脱原発、福島・東日本の復興にお金をかけたらいかがですか!!

●権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっと公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

加藤典洋(かとうのりひろ)
過去の自分の国が為した間違いを「謝る」こと、自分たちの「誤り」を認め、それと向きあうことが、戦争の死者の「無駄死に」に応え、自分たちの道義の「強さ」「まっとうさ」「未来性」のカギとすることで、彼らの「死」を弔うことにもつながる。
慰安婦、日韓併合、中国侵略…「謝罪は戦争の死者たちを哀悼する行為でなければならない」―日本を代表する思想家


日本の真相 鬼塚英昭


天皇の陰謀 はじめに



731部隊展開催のお願い



●日本は1925年のジュネーブ議定書を無視し、主に中国で毒ガス兵器、細菌兵器を多用した!!
閑院宮参謀総長が出した毒ガス使用の指示!!
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)


初めて知った戦争「大久野島」「731」


元をただせば、敗戦時アメリカが、天皇の戦争責任を回避した事につながる。密約が存在するのではないか?
アメリカは、731の戦争犯罪よりも、その細菌兵器に注目し、共産主義の台頭に脅威を感じていたのか?
当時、国家元首の昭和天皇と取引をし、沖縄を軍事基地化し、731の犯罪を免罪し、その細菌戦のデータを本国での遅れた細菌戦研究に利用しその後の戦争で細菌兵器を使用した。また、広島・長崎の2発の原爆投下の残虐性についてはマスコミには情報をシャットアウトさせ、医学界には放射能の体に関する影響の研究や発表を禁止させた。ただただ、日本の医学界は、731の免責を乞うために原爆の被爆調査に全面協力し、資料をアメリカに提供した。

封印された原爆報告書

封印された原爆報告書

アメリカは731の犯罪に目を瞑り、日本は、アメリカの原爆の犯罪に目を瞑っている。
その後、アメリカは「アトムズ・フォー・ピース」の下、CIAのスパイ中曽根・正力を使って、原発を推進し、54基もの原発を狭い日本に設置し、2011年福島の大惨事!!医学界は、放射能の被害については過小に評価。

原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~

原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~




●殺された人の霊が、歴史を否定する日本政府・日本国民を訴えている!!
「戦争犯罪をごまかそうとしている者がいる」中国外交部長が国連で安倍批判




●731問題
展示会を企画した日本人医師は「歴史を歪曲したり、隠そうとしてはいけない」と述べ、安倍政権を批判した。
旧日本軍731部隊の蛮行を反省、日本の医師らが企画展を開催=韓国ネット「日本でそんなことが?」「日本が少しずつ変わっている」
日本政府、「731部隊」「慰安婦連行」などの書類を数日かけ廃棄 1945年、東京の夜空を焦がした公文書焼却の煙東京で「731部隊」関連映像上映、日本の侵略行為を日本人はどう感じたか?―中国紙

辞典に見る731の記述その2



オウムに関わった鈴木俊一と日野原重明と731部隊より
・山西省にあった731部隊の分遣隊の主計部の中尉だった鈴木俊一は東京都知事であり、自民党右派の主要なメンバーだった。鈴木の居た分遣隊は人体実験には関わっていなかったが、彼は731部隊の残酷な秘密を知っていたことを認めている。

・莇(あざみ) :少なくとも日本の医学界の中枢は、731部隊で行われていた医学犯罪の内容を知っていたと思います。当時の京都大学の医学部長も教授も何回もハルピンに行っているんです。そこで何が行われていたか知っていたはずだと思います。昭和14・15年には石井四郎が京大に来て生体実験の内容の一部を映写機で写しているんです。当時京大の助手としてそれを見た日野原重明先生が、2005年12月5日付けの朝日新聞に投稿しています。投稿の内容は、「私が京都大学の医局で学んでいた時、大学の先輩でハルピン特殊部隊の石井四郎中将が現地の様子を納めた写真フィルムをもって母校を訪れました。そこには捕虜たちの生体実験が映っていました。腸チフス・ペスト・コレラなどを感染させてから死亡するまでを収めたものです。見るに耐えられないものであり、今でも鳥肌が立ちます。」

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